おばちゃん達の正義はお節介の延長線上にあるものなんだね。今回も思いついたことをダラダラ~と書きます。メンソール!(笑)
■ みかんの少女
海外ドラマ『LIFE』は、無実の罪を着せられ、投獄された刑事が復讐を果たすドラマだったが、その刑事は出所してからいつもフルーツを食べている、という設定だった。なんでも刑務所では一切フルーツが食べられなかったら、固執するようになったとされていた(投獄されたことと復讐の象徴なのだろう)。
日本の刑務所事情は分からないが、似たような状況なら(ドラマではショートケーキのうっすいイチゴは出てきた)、馬場カヨ(小泉今日子)が入所直前の護送中、手錠をされていて少女からもらったミカンを食べられなかったのは、彼女はもはや世間から離れたところにいることを象徴していたように思う。少女の母親は馬場カヨが護送中であることに気付いたようだが、出所してきた彼女に気付いて挨拶さえしようとしたのは、この母親は人を差別的に見ない人なのか、それとも馬場カヨが犯罪者に見えず、よほどの事情があると思ったのか... とにかくこの親子と再会することで、馬場カヨが世間に戻ってきたことを上手く表現していたと思う。
■ 愛がむきだし
若井ふたばが吾郎にキックをかました時も園子温監督の『愛のむきだし』を思い出したのだが、今回は完全に満島ひかりがその映画に出てきた格好をしてたね。刑務官になったものの、囚人側から壁を作られていくうちに、自分からも壁を作るようになっていたのだろう。その壁を壊したのが馬場カヨで、今回は姫たちへの愛がむきだしていた。
■ チビ社長
どうやら板橋吾郎(伊勢谷友介)が元チビ社長だったらしい。最初にチビ社長が本当の社長になったのかな?と思ったが、いやいやそんなストレートなことやらないでしょ、というのと、江戸川乳業のCMや「ごはんの歌」がすごく古いものに感じたので、年齢的には護摩所長が合ってるように思えた。
吾郎は人の心を操るのが上手いらしい。江戸川しのぶ(夏帆)とその母親もまだマインドコントロール下にあるようだ(催眠術で操られているような感じさえする)。たぶん吾郎は相当昔から江戸川乳業に恨みを抱いていて、それが乗っ取りの動機になっていたような気がする。
勝手に予想しているのは、吾郎と『カルテット』のすずめ(満島ひかり)を繋げるようなことをするのではないか、ということ。すずめは子供の頃、父親の詐欺の片棒を担がされ、「魔法少女」と呼ばれていた。その後も世間から後ろ指をさされ続けることになった。吾郎も子供の頃に大きな傷を受けたような気がする。
■ 虚像と実像
毎回書いているが、このドラマでは虚構と現実が交錯する。今回観ていて思ったのは、虚像と実像がごちゃ混ぜになっていて、その境が無いに等しい、という言い方でもいいのかな、ということ。
今回は財テク(菅野美穂)が吾郎の元恋人・横山ユキ(雛形あきこ)になった。これまで吾郎が誰かの回想で登場してきたように、誰かを演じる、というよりも、その人そのものになる。虚像である筈のものが実像になると言っていい。そして吾郎は晴海(乙葉)に自分はお前の思ってるような人間ではない、と言う。普段見せているのは吾郎の「虚像」で、最終回にその「実像」が姿を現すのだろう。
2017年12月13日水曜日
2017年12月7日木曜日
『監獄のお姫さま』第8話
「好きだからもう会いたくないの」と言われた後の小泉今日子の演技がとても良かった第8話。いよいよ終盤に入って来た感じだが、もっと長く観ていたいと思わせるドラマだ。
良いお店の肉まんは皮だけでも美味しいかもしれないが、中のあんを食べて初めて肉まんを食べたと言える。今回はドラマの表層部分だけでなく、「境界」をキーワードにしてドラマの「あん」の部分を中心に味わってみたいと思う。
■ 溶けていく「境界」
前回書いたように、このドラマではテレビという虚構の世界と現実の世界が交錯する。馬場カヨ達が刑務所で観た番組に出ていた板橋吾郎(伊勢谷友介)が実際に姿を現すし、吾郎にとってもテレビで観ていた女囚達が目の前に現れることになる。財テク(菅野美穂)は出所してから「みそぎ」を建前に、テレビという虚構の世界に戻っていく。このドラマではテレビの世界と現実の世界が密に繋がっていて、「出入り自由」とばかりに2つの世界を行き来しているようで、そこには「境界」というものを感じない。財テクのハニートラップ・ダンス(?)は平気でマドンナからにゃんこスターに移行してしまう。「若井」が「古井」になったり、「若えの」が「若くねえの」になったりする。
馬場カヨの「復習(讐)ノート」に書かれた内容も、実行されなければただの空想、虚構に過ぎない。虚構のまま終わらせず、現実化した(グダグダになってもw)のが若井ふたば(満島ひかり)なのだろう。
馬場カヨはふたばに言う。「犯罪者は本当のことを言っていけないのか?おばさんにだって正義はある」と。一度罪を犯したからと言って、正義を行う資格を失うわけではない。むしろ、それだからこそ、という説得力さえ持つような気さえする。しかし、彼女達が作った復讐計画は、それを正義として実行しても、結果として罪になる。正義と罪が交錯し、その境界線はとてもあやふやなものに見えてくる。
刑務所内では表立って「復讐」とは言えないので「更生」と言い換えることにしているが、彼女達の真の更生は、復讐という名の正義を遂行することで得られるようになっているのだろう。復讐と更生を不可分なものとし、その境界を無くそうとしているようにも思える。
よく言われるように、宇宙から見た地球に国境線などというものは存在しない。それは人が勝手に作った、仮想的な線だ。人はとかく何かの間に線を引いて区別したがる。時に無意識にそれをやってしまう。何かを分けて「区別」したものがいつの間にか「差別」になったり、分けた途端に対立を生むこともある。何かの間に線を引く場合、そこでいいいのか誰が決めるのか?そもそも線を引いて区別すること自体が必要なのか?そんな問いかけをこのドラマを通して感じる。
■ 境界で揺れる若井ふたば
「先生」ことふたばはからかい気味に「肉食系」と言われているが、熱い思いは男だけに向けられているのでは無いと思う。「公務員は安定してるから」というのは多分嘘で、子供の頃に出会った「しいちゃん」のように、受刑者が再び刑務所に戻ってこないよう、自分に何か出来るのではないかと思って看守になったのだと思う。しかし現実は受刑者の方から壁を作られ、自分の思っていたことが出来ず、いつも苛立っているように見える。熱い思いがあるだけに、彼女の中で感情は沸騰し易く、時には壊れた圧力釜のように暴発する。罵詈雑言が飛び出してくるのは、こういう時なのだろう。
囚人のために何かをしたいと思って常に揺れていたふたばにとって、馬場カヨは救いだったのかもしれない。ふたばにとっての馬場カヨは、しいちゃんの再来的存在(二人とも美容師なのが象徴的)だが、復讐計画を実行して刑務所に戻って来ては、本当の再来になってしまう。ふたばは何としてもそれは避けたいと思っている。馬場カヨを懲罰房に入れた時はまだ計画を止める思いが強かったが、釈放前準備寮で1週間を過ごした後では、二人の間にあった壁は取り払われていたように思える。この時点でふたばは自分が音頭をとって復讐計画を実行することを決めていたのかも知れず、しかも馬場カヨ達が新たな罪を背負わない形で決着させようと決心していたのではないか。
■ 馬場カヨの突破力
馬場カヨはバリバリのキャリアウーマンという感じは全くしないが、銀行に復帰後すぐに営業トップになってしまったのは、おばちゃん的浸透力のようなもののおかげなのか。囚人との間に壁を感じて苛立っているふたばにも、そのおばちゃん力で近づいていくし、検事の長谷川に対してまでも距離を縮める。面会室の二人は仕切りを通してしか会話できなかったが、やがて隔てるものの無い美容室で二人がイチャつくのが象徴的だ。検事や看守は刑務所の内と外にある境界を行き来する人達である。そういう人達との親和性を持つのは、馬場カヨが最も普通のおばちゃんに最も近い存在だからなのだろう。財テク、女優、姉御といったキャラや境遇に比べれば、どうしたって馬場カヨが最も「普通の人」になる。
姫の立場に一番近いのも馬場カヨである。二人とも男に裏切られ、息子を奪われている。だから彼女は姫に肩入れせずにはいられない。普通のおばちゃん感覚では濡れ衣を着せ、別の女と結婚してのうのうと暮らす吾郎を許せる筈がない。再審請求の難しさも顧みず、ひたすら復讐計画を実行しようとする。
馬場カヨは自分が陥った状況を回復できない以上、姫のための復讐は代替行為のようなものだ。だが、それをもって良し、とするしかないのである。
■ クドカン流「刑務所の塀の壊し方」
刑務所はもちろん塀という物理的な存在で囲まれていて、それが内と外の明確な境界となっていて、その2つの世界はまるで別物のように感じる。このドラマの狙いが境界線を限りなく曖昧にしてゼロに近づけていくことならば、刑務所の塀さえも実質的に取り払おうとしているのではないかと思えてくる。
普通、刑務所は罪を犯した人が入る場所であると考えられている。しかし、このドラマではそれさえ曖昧だ。例えば姉御(森下愛子)は元夫の罪を被って服役しているし、姫(夏帆)も濡れ衣を着せられているだけなのかもしれない。夫を刺すという罪を実際に犯してしまった馬場カヨにしても、「言語化できない」理由の積み重ねがそうさせてしまったのであり、罪を犯す、犯さないの境界は非常に曖昧なものになっている。
「ジェイルウェア」や「ごはんの歌」など、実際には無さそうなものが「自立と再生の刑務所」には持ち込まれている。それは視聴者を笑わせるためだけのものではなく、我々が漠然と持っている「刑務所」のイメージを吹き飛ばし、外の世界と地続きなものとして感じさせる。テレビ番組のような財テクと馬場カヨの十番勝負もまたこのことに一役買っていたように思う。
■ クドカンの「閉じない世界」
これまでのクドカン作品を振り返ってみると、何かと何かの間にある壁を突き抜けようとする試みが多かったように思う。「罪を憎んで人を憎まず」を極端な形でやって見せたのが『うぬぼれ刑事』だったが、「犯罪者」との間にある見えない壁を、「うぬぼれ」と呼ばれる刑事はいつも突き抜けていった。『ごめんね青春!』にしても、男と女、仏教とキリスト教の間に漠然としてある壁を突き抜けていく話として捉えることも出来る。男や女、犯罪者といったそれぞれの塊で閉じたものになるのではなく、オープンなものにして違うものと接触させることで起きる化学反応のようなものを描いてきたようにも見える。
クドカンはさらにドラマ自体を一つの閉じたものにしたくない、という意識がいつも働いているようにも思える。よく小ネタとしてメタなものをぶち込んでくるが、こういうのはドラマを殻に閉じ込めず、風通しをよくするような効果もあるように思う。
このドラマではこれをさらに押し進めているのかも知れない。「薄手の白シャツ一枚でずぶ濡れの男」は菅野美穂が「女優」として出演した『ひよっこ』を連想させたが、こういうメタ的なものを使っておいて、今度はその状態にさせた吾郎を財テクと遭遇させることで打ち消してしまう。別のドラマと繋げたリンクを消し去ることで空白が残り、ドラマの輪郭線のようなものの一部が消え、より開かれたものになるように感じるのは自分だけだろうか?
良いお店の肉まんは皮だけでも美味しいかもしれないが、中のあんを食べて初めて肉まんを食べたと言える。今回はドラマの表層部分だけでなく、「境界」をキーワードにしてドラマの「あん」の部分を中心に味わってみたいと思う。
■ 溶けていく「境界」
前回書いたように、このドラマではテレビという虚構の世界と現実の世界が交錯する。馬場カヨ達が刑務所で観た番組に出ていた板橋吾郎(伊勢谷友介)が実際に姿を現すし、吾郎にとってもテレビで観ていた女囚達が目の前に現れることになる。財テク(菅野美穂)は出所してから「みそぎ」を建前に、テレビという虚構の世界に戻っていく。このドラマではテレビの世界と現実の世界が密に繋がっていて、「出入り自由」とばかりに2つの世界を行き来しているようで、そこには「境界」というものを感じない。財テクのハニートラップ・ダンス(?)は平気でマドンナからにゃんこスターに移行してしまう。「若井」が「古井」になったり、「若えの」が「若くねえの」になったりする。
馬場カヨの「復習(讐)ノート」に書かれた内容も、実行されなければただの空想、虚構に過ぎない。虚構のまま終わらせず、現実化した(グダグダになってもw)のが若井ふたば(満島ひかり)なのだろう。
馬場カヨはふたばに言う。「犯罪者は本当のことを言っていけないのか?おばさんにだって正義はある」と。一度罪を犯したからと言って、正義を行う資格を失うわけではない。むしろ、それだからこそ、という説得力さえ持つような気さえする。しかし、彼女達が作った復讐計画は、それを正義として実行しても、結果として罪になる。正義と罪が交錯し、その境界線はとてもあやふやなものに見えてくる。
刑務所内では表立って「復讐」とは言えないので「更生」と言い換えることにしているが、彼女達の真の更生は、復讐という名の正義を遂行することで得られるようになっているのだろう。復讐と更生を不可分なものとし、その境界を無くそうとしているようにも思える。
よく言われるように、宇宙から見た地球に国境線などというものは存在しない。それは人が勝手に作った、仮想的な線だ。人はとかく何かの間に線を引いて区別したがる。時に無意識にそれをやってしまう。何かを分けて「区別」したものがいつの間にか「差別」になったり、分けた途端に対立を生むこともある。何かの間に線を引く場合、そこでいいいのか誰が決めるのか?そもそも線を引いて区別すること自体が必要なのか?そんな問いかけをこのドラマを通して感じる。
■ 境界で揺れる若井ふたば
「先生」ことふたばはからかい気味に「肉食系」と言われているが、熱い思いは男だけに向けられているのでは無いと思う。「公務員は安定してるから」というのは多分嘘で、子供の頃に出会った「しいちゃん」のように、受刑者が再び刑務所に戻ってこないよう、自分に何か出来るのではないかと思って看守になったのだと思う。しかし現実は受刑者の方から壁を作られ、自分の思っていたことが出来ず、いつも苛立っているように見える。熱い思いがあるだけに、彼女の中で感情は沸騰し易く、時には壊れた圧力釜のように暴発する。罵詈雑言が飛び出してくるのは、こういう時なのだろう。
囚人のために何かをしたいと思って常に揺れていたふたばにとって、馬場カヨは救いだったのかもしれない。ふたばにとっての馬場カヨは、しいちゃんの再来的存在(二人とも美容師なのが象徴的)だが、復讐計画を実行して刑務所に戻って来ては、本当の再来になってしまう。ふたばは何としてもそれは避けたいと思っている。馬場カヨを懲罰房に入れた時はまだ計画を止める思いが強かったが、釈放前準備寮で1週間を過ごした後では、二人の間にあった壁は取り払われていたように思える。この時点でふたばは自分が音頭をとって復讐計画を実行することを決めていたのかも知れず、しかも馬場カヨ達が新たな罪を背負わない形で決着させようと決心していたのではないか。
■ 馬場カヨの突破力
馬場カヨはバリバリのキャリアウーマンという感じは全くしないが、銀行に復帰後すぐに営業トップになってしまったのは、おばちゃん的浸透力のようなもののおかげなのか。囚人との間に壁を感じて苛立っているふたばにも、そのおばちゃん力で近づいていくし、検事の長谷川に対してまでも距離を縮める。面会室の二人は仕切りを通してしか会話できなかったが、やがて隔てるものの無い美容室で二人がイチャつくのが象徴的だ。検事や看守は刑務所の内と外にある境界を行き来する人達である。そういう人達との親和性を持つのは、馬場カヨが最も普通のおばちゃんに最も近い存在だからなのだろう。財テク、女優、姉御といったキャラや境遇に比べれば、どうしたって馬場カヨが最も「普通の人」になる。
姫の立場に一番近いのも馬場カヨである。二人とも男に裏切られ、息子を奪われている。だから彼女は姫に肩入れせずにはいられない。普通のおばちゃん感覚では濡れ衣を着せ、別の女と結婚してのうのうと暮らす吾郎を許せる筈がない。再審請求の難しさも顧みず、ひたすら復讐計画を実行しようとする。
馬場カヨは自分が陥った状況を回復できない以上、姫のための復讐は代替行為のようなものだ。だが、それをもって良し、とするしかないのである。
■ クドカン流「刑務所の塀の壊し方」
刑務所はもちろん塀という物理的な存在で囲まれていて、それが内と外の明確な境界となっていて、その2つの世界はまるで別物のように感じる。このドラマの狙いが境界線を限りなく曖昧にしてゼロに近づけていくことならば、刑務所の塀さえも実質的に取り払おうとしているのではないかと思えてくる。
普通、刑務所は罪を犯した人が入る場所であると考えられている。しかし、このドラマではそれさえ曖昧だ。例えば姉御(森下愛子)は元夫の罪を被って服役しているし、姫(夏帆)も濡れ衣を着せられているだけなのかもしれない。夫を刺すという罪を実際に犯してしまった馬場カヨにしても、「言語化できない」理由の積み重ねがそうさせてしまったのであり、罪を犯す、犯さないの境界は非常に曖昧なものになっている。
「ジェイルウェア」や「ごはんの歌」など、実際には無さそうなものが「自立と再生の刑務所」には持ち込まれている。それは視聴者を笑わせるためだけのものではなく、我々が漠然と持っている「刑務所」のイメージを吹き飛ばし、外の世界と地続きなものとして感じさせる。テレビ番組のような財テクと馬場カヨの十番勝負もまたこのことに一役買っていたように思う。
■ クドカンの「閉じない世界」
これまでのクドカン作品を振り返ってみると、何かと何かの間にある壁を突き抜けようとする試みが多かったように思う。「罪を憎んで人を憎まず」を極端な形でやって見せたのが『うぬぼれ刑事』だったが、「犯罪者」との間にある見えない壁を、「うぬぼれ」と呼ばれる刑事はいつも突き抜けていった。『ごめんね青春!』にしても、男と女、仏教とキリスト教の間に漠然としてある壁を突き抜けていく話として捉えることも出来る。男や女、犯罪者といったそれぞれの塊で閉じたものになるのではなく、オープンなものにして違うものと接触させることで起きる化学反応のようなものを描いてきたようにも見える。
クドカンはさらにドラマ自体を一つの閉じたものにしたくない、という意識がいつも働いているようにも思える。よく小ネタとしてメタなものをぶち込んでくるが、こういうのはドラマを殻に閉じ込めず、風通しをよくするような効果もあるように思う。
このドラマではこれをさらに押し進めているのかも知れない。「薄手の白シャツ一枚でずぶ濡れの男」は菅野美穂が「女優」として出演した『ひよっこ』を連想させたが、こういうメタ的なものを使っておいて、今度はその状態にさせた吾郎を財テクと遭遇させることで打ち消してしまう。別のドラマと繋げたリンクを消し去ることで空白が残り、ドラマの輪郭線のようなものの一部が消え、より開かれたものになるように感じるのは自分だけだろうか?
2017年11月29日水曜日
『監獄のお姫さま』第7話
第7話の感想というよりも、これまでのことを含めて思いついたことをダラダラと書いてみたいと思う。
■ 笑いとメタファー
ネットニュースで「おばちゃん達の戦隊ヒーローコスプレが寒い」とか言われていて、頭が痛くなった。相変わらず表面的なことしか見ていない。
クドカン作品の場合、笑わせながら提示してくるものに意味を持たせることが多いので油断できない。「戦隊ヒーロー」は明らかに「正義」の象徴だ。おばちゃん達の正義は次回フューチャーされるようだが、戦隊ヒーローの正義はちょっと安っぽいので、頓挫する可能性もあると思っている。「姉御ミルフィーユ」だっておばちゃん達が踏みつけにされてきたことのメタファーだろう。こういうのを単に笑いのためだけにやってしまうと、どんどんコントに近づいていってしまう。これはドラマなのだ。笑わせるためだけのものではない。
■ 「テレビの中の世界」との交錯
今回は「女優」こと大門洋子(坂井真紀)が劇中劇『恋神』に図らずもエキストラとして出演するという場面があった。考えてみれば、このドラマでは登場人物たちが「テレビの中の世界」と交錯している。
板橋吾郎(伊勢谷友介)はテレビで女囚を扱った番組を観ていたが、そこに登場していた女達が勇介を誘拐し、吾郎自身を拉致・監禁する。彼自身がニュースや『かねもち散歩』などの番組に出演する側でもあり、妻の晴海(乙葉)は元タレントで、少なくともCMでテレビに出ている。勇介も開放された後、ニュース番組に登場しているので、ほとんどの人物がテレビに出ているという共通点があることになる。
だいたいこのドラマの冒頭が『サンデージャポン』という実在する番組に吾郎と財テクこと勝田千夏(菅野美穂)が出演している場面だった。
意図があってこういうことをやっているのだと思うが、何のためかはまだ分からない。最後に「そういうことだったのか」と唸らせてくれると期待している。
■ ちび社長がずっと気になっている...
こういう流れだと、ちび社長(江戸川乳業のCMや刑務所の歌)が出て来る可能性もあるかな、と思う。実は3,4話あたりで、姫と吾郎が二人とも真犯人では無い方が面白くなりそうで、じゃあ誰を犯人にすればいいかと考えた場合、ちび社長だったら良いのではないかと思っていた。動機はCM出演後いじめられたとか、歌とは裏腹に一家離散して勝手に江戸川乳業に恨みを抱いていたとか、いくらでも作れる。で、現在は護摩所長(池田成志)になっている、というのが勝手な想像(笑)。しかし吾郎は最終回まで監禁されたままらしいので、ちび社長犯人説を突っ込むのは苦しそうだ。ただ、「護摩」という名前は気になるところではある。
■ 「監獄のお姫さま」は江戸川しのぶ一人だけなのか?
今回「爆笑ヨーグルト姫事件」の実行犯である「プリンス」はタイで服役中であると言及されたが、同じタイ人であるリンが日本で服役してる理由が気になってくる。タイには王室があるので、彼女は実はプリンセスで何らかの理由で本国に戻れず、隠れるために刑務所にいるのでは?とか、ちび社長犯人説だとリン経由でプリンスに繋がったのでは?とか想像は暴走する(笑)。
「監獄」が精神的な意味を持つ可能性もあると思っている。それぞれのおばちゃん達の「姫」の部分が閉じ込められていたとか、より広い意味を持つことを期待してたりもする。
■ 笑いとメタファー
ネットニュースで「おばちゃん達の戦隊ヒーローコスプレが寒い」とか言われていて、頭が痛くなった。相変わらず表面的なことしか見ていない。
クドカン作品の場合、笑わせながら提示してくるものに意味を持たせることが多いので油断できない。「戦隊ヒーロー」は明らかに「正義」の象徴だ。おばちゃん達の正義は次回フューチャーされるようだが、戦隊ヒーローの正義はちょっと安っぽいので、頓挫する可能性もあると思っている。「姉御ミルフィーユ」だっておばちゃん達が踏みつけにされてきたことのメタファーだろう。こういうのを単に笑いのためだけにやってしまうと、どんどんコントに近づいていってしまう。これはドラマなのだ。笑わせるためだけのものではない。
■ 「テレビの中の世界」との交錯
今回は「女優」こと大門洋子(坂井真紀)が劇中劇『恋神』に図らずもエキストラとして出演するという場面があった。考えてみれば、このドラマでは登場人物たちが「テレビの中の世界」と交錯している。
板橋吾郎(伊勢谷友介)はテレビで女囚を扱った番組を観ていたが、そこに登場していた女達が勇介を誘拐し、吾郎自身を拉致・監禁する。彼自身がニュースや『かねもち散歩』などの番組に出演する側でもあり、妻の晴海(乙葉)は元タレントで、少なくともCMでテレビに出ている。勇介も開放された後、ニュース番組に登場しているので、ほとんどの人物がテレビに出ているという共通点があることになる。
だいたいこのドラマの冒頭が『サンデージャポン』という実在する番組に吾郎と財テクこと勝田千夏(菅野美穂)が出演している場面だった。
意図があってこういうことをやっているのだと思うが、何のためかはまだ分からない。最後に「そういうことだったのか」と唸らせてくれると期待している。
■ ちび社長がずっと気になっている...
こういう流れだと、ちび社長(江戸川乳業のCMや刑務所の歌)が出て来る可能性もあるかな、と思う。実は3,4話あたりで、姫と吾郎が二人とも真犯人では無い方が面白くなりそうで、じゃあ誰を犯人にすればいいかと考えた場合、ちび社長だったら良いのではないかと思っていた。動機はCM出演後いじめられたとか、歌とは裏腹に一家離散して勝手に江戸川乳業に恨みを抱いていたとか、いくらでも作れる。で、現在は護摩所長(池田成志)になっている、というのが勝手な想像(笑)。しかし吾郎は最終回まで監禁されたままらしいので、ちび社長犯人説を突っ込むのは苦しそうだ。ただ、「護摩」という名前は気になるところではある。
■ 「監獄のお姫さま」は江戸川しのぶ一人だけなのか?
今回「爆笑ヨーグルト姫事件」の実行犯である「プリンス」はタイで服役中であると言及されたが、同じタイ人であるリンが日本で服役してる理由が気になってくる。タイには王室があるので、彼女は実はプリンセスで何らかの理由で本国に戻れず、隠れるために刑務所にいるのでは?とか、ちび社長犯人説だとリン経由でプリンスに繋がったのでは?とか想像は暴走する(笑)。
「監獄」が精神的な意味を持つ可能性もあると思っている。それぞれのおばちゃん達の「姫」の部分が閉じ込められていたとか、より広い意味を持つことを期待してたりもする。
2017年3月26日日曜日
『カルテット』 最終話
クラシック音楽だけでなく、日本の昔話やルイス・キャロルの童話などの要素を散りばめた、大人のおとぎ話とでも呼べそうな『カルテット』は最終回を迎えた。このドラマ自体がクラシックのようなものになって欲しいという願いも込められていたのかもしれない。本物だけが時間の流れに耐え、永く残ることができる。
■ 変わりゆくものと変わらぬ思い
人生、必ずしも望んでいた通りにはならない。「ノクターン」は割烹ダイニング「のくた庵」になった。マスターは優しさからか、本音なのか分からないが前から和食をやりたかったと言ってくれた。ただ、「のくた庵」の方が儲かっていそうではある。家森は理容師としてはアシスタント止まりで、今カットできるのは長過ぎる春雨(?)くらいになってしまった。すずめと家森が仕事にどっぷり浸かって音楽から気持ちが離れていく中、元々会社に居場所があったとは言えない別府は退職し、一人だけ同じ場所に留まり続けている。家森は誰かを巻き込んで寸劇を繰り広げるが、別府は一人芝居をするように真紀が残していったレコーダーに思いを記録しているところが何ともいじましい。
有朱は相変わらずという感じだ。普通なら、結婚します!という感じで左手の婚約指輪を見せるのだろうが、右手の高価な指輪の方を谷村夫婦に見せびらかす。結婚よりも金持ちになることを見せつけるところに危うさがある。
真紀は自からは軽井沢に戻ることができない。すずめ達が迎え入れてくれることは分かっていても、もはや自分の音楽を真正面から受け止めてくれる人はいないと考えている。真紀はすずめに自分のヴァイオリンを託していった。かつて半田が家森のヴィオラを奪い、それを返したときに元妻・茶馬子はあんたはそのままでいい、音楽を続ければいい、言ってくれた。今度はすずめ達が真紀にヴァイオリンを返す番になる。
真紀が幹生と逃げようとした時、すずめは母親についていこうとする子供のようだった。今度は逆にすずめが母親的で、久し振りに再会した真紀がやつれ、苦労して来たことを、何の会話もせずに気付く。多くのものが移り変わってゆく中で、すずめ達の真紀への思い、真紀の3人への思いは変わらなかった。
■ 4人と音楽
このドラマでは男だから、女だからという理由による役割分担がない。とてもフラットな関係性だ。最初から男二人が料理を作っていたし、4人で洗濯物を干しながらふざけ合ったりしていた。車の運転は真紀がいないときは別府、という感じだったが、運転には意味を持たせているように思う。
真紀はいつも大事な局面でカルテットの方向性を決めてきた。ベンジャミン瀧田を追い出した時や愛死天ROOでの弾きぶり、そして今回のコンサート開催。何としても4人で音楽ができる場を作りたい、という強い意志が読み取れる。真紀が運転することが多いのは、3人を伴って目的地へ導く役割であることを象徴しているように思う。カルテットにはオーケストラのような指揮者はいないし、バンドのようにリズムを刻んでくれるドラムもない。信頼できる核となるような人を中心に音楽を奏でるスタイルなのだと思う。
真紀が自分のことだけ考えるのなら、すずめ達3人よりも、もっと上手い人と組んだ方がいい。真紀だけが元プロ奏者なので、そう出来る確率は高いのだが、真紀はそうしなかった。初めからこの4人で何とか音楽活動ができるように努めていた。真紀だけが唯一プロの厳しさを知っている立場だから、ということだけではないだろう。さんざん苦しんだ過去を捨て、結婚したら今度は夫が失踪。やっと辿り着いた場所である。ここしかない、これを失ってはいけないという切実な思いがあったのだろう。
4人が最初に出会った頃の回想が描かれた。そのとき全員一致したのが「自分の気持を音にして飛ばす感覚」と、それが誰かに届いたと感じられるときの喜び。一度これを知ってしまうと、なかなか音楽をやめられなくなるのだろう。実際真紀の住む団地で演奏した時、彼らの音楽は真紀に届いたし、ショッピングモールでの演奏を楽しそう聴いていた中学生もコンサートに来てくれたのである。
ドーナツホール宛の匿名の手紙は「技術も才能も無く、煙突から出た煙のような存在なのに、なぜ音楽を続けるのか?」といったような文面だった。例えそうでも、彼らなりの音楽をやって、伝わる人に伝わればいいと4人は考えている。だから、演奏中に空き缶を投げつけられようと、途中で客が帰ってしまおうと、彼らはめげない。それが手紙への答えでもある。
コンサート会場に来ていたGのキャップを被る女性は手紙の送り主だと思わせる。5年前に止めた筈の楽器のケースを持っていたので、彼女もまた同類で、手紙に書いた問いへの答えを切実に求めていたのかもしれない。
ドーナツホールの4人は疑似家族みたいなものだ。別府と家森がファーストネームで呼び合うのもその表れ(ちょっと気持ち悪いけどねw)。さらに4人は音楽で結ばれた同志でもある。すずめ達が真紀のヴァイオリンを持って行ったとき、音楽を奏でて真紀を呼び寄せたが、ドーナツホールの再結成に言葉は必要なさそうだ。嘘から始まったカルテットはリセットされ、今度は嘘のない形で再スタートした。
■ 世間との対峙
『問題のあるレストラン』では、ちょっとしたことがきっかけでレストランは閉店に追い込まれてしまう。少しのミスも許さず、執拗に責任を追求する世間に潰されてしまった格好だ。『カルテット』でも手紙の送り主や週刊誌の根拠ない記事を通して世間が顔を出す。真紀とすずめは自分たちの過去を逆手にとってコンサートの客を集めることにする。『問題のあるレストラン』では主人公たちは為す術なくやられてしまったが、今度はちゃんと反攻する格好だ。
自分たちの過去を利用してコンサートを開くということは、色物のような存在になるということだ。かつて押し付けられた「愛死天ROO」を、今度は自ら望んでやるようなものだ。「志のある三流は四流」だと言われたが、3.5流くらいにはなれたのかも知れない。4人は世間から外れたような存在だが、孤立をよしとしている訳ではない。不器用な彼らは、音楽を通してしか自分たちを表現できず、それが自分を偽らずに世界と繋がことができる唯一の方法なのだと思う。
有朱がコンサートにやって来たのは、金持ちになったことを見せつける以上の意味があったと思う。有朱は自分とは全く違った価値観を持つ真紀に執拗に絡んでいたが、真紀たちが何を選択したかを彼女に見せることに意味があったのだと思う。有朱もまた世間の一部だ。
■ 乙女の死
真紀が義父を殺したかどうかは、いくら目を凝らして繰り返し観たところで、白黒つけられるような決定的証拠が出て来る訳ではない。結局真紀という人をどう見ているかにかかっているのだろうが、自分には真紀が義父を殺したとは思えない。
コンサートの1曲目は真紀が選んだシューベルトの『死と乙女』は、病気で死期が近づいた乙女は死を恐れるが、死は安息であるという救いを与える歌だと捉えられている。タイトルしか見ない人には真紀が義父を殺したと想像させるかもしれない。しかし、歌詞を見ると、死は直接乙女自身に向かっている。真紀が自殺まで考えたのかは分からないが、山本アキコという乙女を死なせることでしか安息を得られなかったのだろう。それは無垢であることの終わりでもある。
「乙女」から「早乙女」を連想する人もいるだろうが、脚本家のトラップのような気もする。タイトルしか見ないで判断する人は、「コロッケデート」の文字と写真だけで判断してしまうような人と何も変わらないよ、と言いたいのかも。
■ 花火とパセリ
ラストで4人は熱海の花火大会で演奏することになる。この季節に花火?と思ったが、まあよしとしよう。花火を打ち上げているのに誰が演奏聞くの?という話はどこかで観た気がすると思ったら、NHKで放送中の『火花』第1話だった。こちらは花火打ち上げてる間に誰が漫才聞くんかーい、という話だった。このドラマ、1シーン、1カットが長く、ダラーとした印象があるので、こちらもダラーとした感じで何となく見ていたのだが、『カルテット』との関連ではとりあえず見ておいて良かった。このドラマには茶馬子役で登場した高橋メアリージュンも出演している。今回、なぜ大橋絵茉という、茶馬子と関係ありそうな紛らわしい名前の人物が登場したのか疑問だった。もちろん、彼女は真紀とは対極的で、3人にはやっぱり真紀が必要、と思わせるためだが、大橋という名字でなくても良かったのではないか、と。狙いとしては茶馬子を思い出してもらい(半田と墨田の再登場も同じ目的だろう)、『火花』と関連付けて欲しかったのだと思う。
話を戻そう。ドーナツホールも芸人達も、花火大会ではパセリのような添え物扱いだ。花火のように華麗に輝く人もいれば、添え物で終わってしまう人もいる。それでもこのドラマは「サンキューパセリ」なのだ。そして花火だって後に残るのは「煙」だけなのである。
売りに出された別荘は、買い手がつかずに宙ぶらりんの状態。そして4人もまた宙ぶらりん状態だ。彼らは時に道に迷いながらも、「みぞみぞ」できる喜びを噛み締めながら進んでゆくのだろう。彼らなりのやり方で。
■ 『あまちゃん』フォロワーとしての『カルテット』
『あまちゃん』の鈴鹿ひろ美がどんな思いで女優人生を送って来たか、震災後歌う気になった動機などが詳しく語られることはなかった。意図的に空白部分を作り、視聴者に想像してもらう作りになっている。正解が用意されている訳ではないので、あれこれ考えても永久ループのようになる。その意味で『あまちゃん』は未完であり、終わらないドラマになったのだと思う。
この鈴鹿ひろ美の描き方を取り入れたのが『カルテット』の真紀だ。家森や別府の過去も詳しく描かれたとは言えないが、それは重要ではないから。真紀の義父殺害の疑惑については、明確な答えが用意されている訳ではない。こうすることで、『あまちゃん』同様、放送終了後も視聴者があれこれ想像することで、余韻を楽しめるようになっている。
最初に戻るような円環構造や隠れた笑い、鏡像関係なども『あまちゃん』で使われた手法を取り入れたのだろう。だいたいドーナツホールの立ち位置が、天野アキが選んだ「プロでもない、素人でもないアマちゃん(アマチュア)」と極めて近い。映画『Wの悲劇』の影響を明示するため、『あまちゃん』では薬師丸ひろ子が出演した。同様に『カルテット』では宮藤官九郎を出演させることで『あまちゃん』の影響を明示した。もちろん全てが『あまちゃん』では無く、他の作品の影響も感じられる。例えば松尾スズキ監督の『クワイエットルームにようこそ』でクドカンが演じた鉄雄というキャラは巻幹生によく似ている。また、『Wの悲劇』の原作(映画では原作が劇中劇として使われるという面白い構造になっている)は雪に囲まれた別荘が舞台だ。
『あまちゃん』はこうすればドラマは面白くなる、という方法をいくつも提示していた。『カルテット』はそれに応える形で作られたものでもあると思う。もっとこういうドラマが増えてくれれば嬉しいのだが。
2017年3月17日金曜日
『カルテット』 第9話
■ 炎上クイーンの退場
有朱は株で損したことを知ると、財産のある谷村大二郎に言い寄る。真紀のヴァイオリンを盗もうとしたときのように、この人は短絡的な行動を取る。谷村にはあっさり跳ね除けられ、おまけに彼の妻にその様子を見られてしまい、「ノクターン」をクビになる。炎上クイーンはケーキも燃やす(笑)。店を辞めて出ていくときも、有朱には全く悪びれた様子はない。女王様のように堂々と去って行く。ベンジャミン瀧田の時と同様に、有朱も金を貰って出て行くが、両者の態度は対照的だ。瀧田は金の入った封筒の中をチラッと見るだけ。有朱は札を引っ張り出して確認している。瀧田は音楽を続けることが第一で、そのために家族も失ったのだろう。これに対して有朱は金銭が全てに優先するようだ。人間など当てにできない、お金が全て、といったように。有朱が最後に「不思議の国に連れってちゃうぞ」と地下アイドル時代に使っていたようなフレーズを残していくが、おそらく彼女の言う「不思議の国」は欲にまみれた現実の世界で、離れた立場から見ると、そこは非常に歪んだ「不思議の国」なのかもしれない。
有朱が別府に全く関心がなかったのは不思議だ。普通ならいい金蔓になりそうだが、それだけ存在感が薄い、というオチだったか。あるいは、単に誰かのものを奪うのが好きなだけなのかもしれない。別府だけ『鏡の国のアリス』の登場人物とは関係ないので、有朱の視界には入っていなかったという裏の意味を持たせている可能性もある。
朝ドラ的に、実はこの人にはこんないい面もありました、みたいなことを一切やらないのが潔い。その代わり、有朱が今後躓くことを暗示している。有朱は自らヒールをもぎ取り、足元を不安定にした。有朱の姿が見えなくなった後、躓いた声だけ聞こえてくるが、この先有朱が何らかの形でつまずき、それは自分自身で蒔いた種によるものであると暗示している。脚本の遊びとして、この場面は『鏡の国のアリス』と逆のパターンになっている。この中ではアリスがハンプティー・ダンプティー(家森に相当)の元を去った後、彼が塀から落ちる音だけが聞こえてくる。
■ ちゃんとした結果
別府は自分がちゃんとした結果で、ちゃんと練習してなかった連中が世界で活躍していると言う。才能というのはいくら真面目に練習しても得られるものではない。音楽一家の中にあって才能が無いというのは地獄のようなものだったろう。自分自身が芸能一家の出である松田龍平に、別府司という人物にどんな感想を持ったのか聞いてみたいものだ。そんな経験があるから、別府は一般的ものの見方から開放されているとも言える。だからこそアリではなく、キリギリスになってもいい、と言えるのだろう。穴があるからこそドーナツ.。欠落した部分を含めて、その人だ。しかし、真紀が去ってできた大きな穴は、カルテットにとっては致命的だ。
■ きみの名は、どうでもいい
家森の言い方を借りれば、真紀は、巻真紀→早乙女真紀 に巻き戻り、さらに、早乙女真紀→ヤマモトアキコ、と巻き戻ったわけだ。どんどん過去に戻っていくような姿は、時間が逆回りしているという『鏡の国のアリス』の白の女王のようだ。有朱の退場とともに、最後まで戻りきった感がある。真紀が自分は早乙女真紀ではないと告白したとき、真っ先に許したのはすずめだった。後で触れるが、二人は同じような経験をした、これ以上ない理解者同士だ。極端に言えば、名前は他者と区別するための記号に過ぎない。どんな過去であろうと、どんな名前であろうと、すずめ達が知っている早乙女真紀と名乗った人物は、お互いに「好き」という感情と信頼で結ばれている。彼女がそこにいる理由としては、それで十分だ。
『千と千尋の神隠し』では千尋は名前を剥奪された上で、油屋の労働システムの中に組み込まれる。つまりはそのシステムの部品となった訳で、それ以外の生き方は許されていない。真紀の場合はその逆で、自ら名前を捨て、既成の枠組みから飛び出すことで、過去も捨てるという代償を伴いつつも自由になった訳だ。4人が出会ったのは、偽の偶然によるものだった。真紀が予めそのことを知っていたとしても、やはりそれは「運命」だと言ったかもしれない。
賠償金をもらって音楽を続けることを、真紀はどう思っていたのだろうか?それが苦痛を伴ったとしても、どうしても音楽は続けたかったように思える。おそらく音楽が、売れない演歌歌手だった母親と自分を繋いでてくれる、唯一残されたものだったのだろう。義父の死をきっかけに別の人生に乗り換えてからも音楽を続けているのは、そういうことだったのかもしれない。しかし本当に追い求めていたのは家族で、だからこそ幹生と結婚すると同時に音楽を手放すことが出来たのだろう。ドーナツホールは音楽も同時にできる疑似家族のようなものであり、「死ぬなら今かなってくらい、今が好き」と言わせるほどの夢の場所だったことになる。
真紀がドーナツホールのメンバーに求めていたのは、家族的な愛であって、恋愛ではない。すずめは自分の別府への気持ちを抑えることで、自然と真紀の立場に近づいていた訳だ。そしてこのドラマの真の狙いも4人の恋愛模様を描くことではなく、4人がお互いに人としていかに繋がれるかを描くことなのだと言っていいと思う。
富山県警の刑事が来た時、真紀とすずめは同じお菓子が食べている途中だった。二人の関係性を享受する途中で終わりが来たことを暗示しているのだろう。その後、真紀が急に唇を気にしだしたのは、お菓子をもっと食べ続けていたかった、つまりすずめ達との関係を続けていたかったという思いの表れなのだろう。
■ 閉じられていく輪
前に出て来たものを別の形で繰り返すことで、次々と輪が閉じられ、何かが終わっていく感覚になる。家森はかつて言われた(LINEだが)「こちらから連絡します」を有朱にそのまま返す。すずめは「好きという気持ちはこぼれる」という真紀の言葉を返す。別府が最初に真紀に会ったときに弾いていた『アヴェ・マリア』を真紀自身が奏でる。そして「ノクターン」で最初に演奏した『モルダウ』を同じ場所で全員で演奏する。奇しくも第9話がOAされた3月14日は円周率(3.14...)の日だった。家森はみんなに会えたから「人生のやり直しスイッチ」を押す気はないと言っていたが、その傍らで真紀とすずめはスティックドミノという遊びに興じている。これはスイッチを押すと自爆するようにも、何かを破壊する遊びにも見える。他人になりすますことで「やり直しスイッチ」を押したのは真紀だが、回り回って折角見つけた居場所を自分で壊してしまったように思える。
■ 鏡像としての真紀とすずめ
エンディング映像で真紀とすずめが窓をはさんで、お互いに鏡写しになっているように演出されていたが、ドラマの中でもこの二人は鏡像のような関係だった。すずめは子供の頃、自殺者まで出した父親の詐欺事件に巻き込まれている。真紀は事故で母親を亡くしたが、義父は真紀に暴力を振るったうえ、加害者家族に法外な賠償金をふっかけ、それがまた真紀を苦しめた。二人とも母親を亡くし、父親が原因で辛い思いをして来たという点で同じだ。真紀は他人の戸籍を買い、本当の名前を捨てた。すずめは綿来ではなく世吹を名乗っている。二人が名前を変えていることも共通している。カルテット ドーナツホールを鏡の国とするなら、それは嘘から始まった国だ。そこは世間からずれた、特殊な空間かもしれない。しかし、そこには世間の固定観念に縛られない別府司という番人のような人がいて、曇りもいい天気と言える自由がある。4人の固い絆もできた。すずめはこの国で始めて居場所を見つけ、痛みを共有できる、もう一人の自分とも言える真紀に出会えた。このドラマをここまで観ると、二人が巡り会える場所は、ここしかなかったと思えるから不思議だ。だが結局、この国は真紀の嘘が原因で終わる。
すずめは『鏡の国のアリス』の、眠ってばかりいる赤の王なのだろう。すずめは夢見た居場所をやっと見つけたが、真紀が去ることで、その夢は終わったのだと言える。第9話の最後のシーンは3人だけの食卓。生きて前に進むためには食べなければならない。しかし、真紀のいない食卓には以前の活気は無く、会話もない食事は味気ない。
2017年3月12日日曜日
『カルテット』なぜ第8話が『舌切り雀』なのか
『カルテット』第8話は、日本の昔話である『舌切り雀』がベースになっている。前回のブログでは詳しく書かなかったので、補足として書いておこうと思う。
巻鏡子→おばあさん、根本(チェロを教えてくれたおじいさんの「入れ替わり」的存在でもある)→おじいさん、と考える。すずめは鏡子の作った料理を勝手に食べ始めてしまった。そしてバイト先で鉄板焼きに誘われたと嘘をつく。『舌切り雀』では、勝手に食べたことに怒ったおばあさんは雀の舌を切ってしまうが、すずめは別府に「舌を抜かれる」。もちろん比喩的な意味でだ。エンマ大王は嘘つきの舌を抜く。別府がなぜエンマなのかはこちらを参照。
舌を抜かれた状態とは、別府がまだ真紀のことが好きなのをすずめは知っているので、自分の本当の気持ちを伝えられないということ。おじいさんへの贈り物は、年寄りしかいない不動産屋に若い労働力。そして根本に「眩しいね」と言わせた、恋する心のきらめきだと考えてもいいかもしれない。『舌切り雀』ではおばあさんも雀から土産をもらうが、中身は化け物だった。鏡子の場合は、真紀が正体不明の女だということを知らされる。
とっ散らかった『舌切り雀』だが、こういう解釈もできるということで。脚本家がこの昔話の要素をあちこちに分散して埋め込んだのは、今回の脚本を書くにあたってあくまで元ネタとして使ったか、あるいは簡単に『舌切り雀』だと分かってしまうと、最後(鏡子が恐怖を感じるものに会う)の予想がついてしまうので、あえて分かりにくくしたとも考えられる。
『舌切り雀』は富山県(そう、刑事が来たところだ)を発祥とする説もあるようだが理由は分からない。元々は古典(『宇治拾遺物語』)にあった話なので、それが富山に関係するのだろうか?この昔話の原型は『腰折れ雀』で、腰を痛めた鏡子はヒントでもあったのかもしれない。前に真紀が鏡子をマッサージするという伏線があったので、鏡子が腰を痛めてもそれほど不自然には感じなかった。『腰折れ雀』まで意識していたなら、かなり用意周到だ。
2017年3月9日木曜日
『カルテット』 第8話
すずめの片思いが中心に描かれた第8話。宅建の資格証書には「綿来すずめ」とあったので、少なくとも資格を取った時点ではその名字だった。「世吹」を名乗る理由は相変わらず伏せられたままだが、そんなことを吹き飛ばしてしまうような出来事が最後に起きた。
■ 片思いは一人で見る夢
一体別府は何度真紀に告白すれば気が済むのだろうか?(笑)「またですか?」とか言われたらお終いだと思うけど。これだけしつこいと、脚本家が例の映画(『告白』)を思い出させようとしているのかと勘繰ってしまう。
真紀が別府にバッハの『メヌエット』を弾いてみせたのが、ちょっと気になる。ピアノの練習曲ということなのだろうが、これは"A Lover's Concerto"という曲の元にもなっている。
この歌はざっくり言うと、二人が恋に落ちたずっと後になっても嘘偽りなく愛していてくれたら最高ね、という内容。これを誘い水だと別府が勘違いして改めて告白してしまったとも考えられる。歌詞に「セレナーデ」(小夜曲)が出て来るが、この曲を弾いている場所が「ノクターン」(夜想曲)なのも面白い。
親が自分の子供に対して持つ気持ちは、ある意味「片思い」と言えるかもしれない。巻鏡子は息子を信じるあまり、真紀を疑い続けた。前回、腰痛をおして食器を階段まで運んで来たが、離婚して関係なくなったのに別荘に置いてもらってることや真紀を疑った申し訳無さで相当肩身が狭かったことを物語っていた。しかし体が回復すると説教しだすのは、これがこの人の通常モードで、幹生が逃げ出した理由も分かるのである。だが4人は説教をスルーして「だるまさんがころんだ」みたいにして食事を始める。まるで口煩い母親とふざけ合う兄弟のようだが、子供の頃に出来なかったことを今埋め合わせているようにも見える。そんな他愛もないことが、たまらなく愛おしい時間だと感じられるのではないか。そしてそれはいつまでも続かない予感をはらんでいる。
元Vシネ俳優にして「寸劇の巨人」家森は、すずめに片思い。すずめはトイレのスリッパを履いたままだったりと大雑把なところは元妻・茶馬子と共通している。すずめの別府への気持ちを知っているので、鉄板焼きに誘われたことが嘘だと見抜き、たこ焼きを買って来て食べさせるという健気さを見せる。家森は「片思いは一人で見る夢。両思いは現実。片思いは非現実」、そして「夢の話をして『へえ』と言わせないで」とも言っている。彼自身は告白することなく、せいぜい寸劇というシミュレーション的なものに留まっているのである。
すずめは別府の弟が別荘を売ろうとしており、さらに自分たち「ダメ人間」が別府に負担をかけていることに気付く。「布団の中で暮らすこと」が夢だったすずめは、別府のためにバイトすることにする。バイト先の根本は、すずめにチェロを教えてくれた「白い髭のおじいさん」を想起させるが、今度はすずめがパソコンの使い方を教えるという逆の立場になることで、彼女の成長と、変形した『舌切り雀』の恩返しのようなものを感じさせる。
すずめはこれまで別府のベッドに潜り込んだり、キスしたりしているので、言葉にはせずとも告白しているようなものだが、家森の「冗談です」とは違うやり方でなかったことにしようとする。大した意味ないんです、そんなこと忘れちゃって下さい、と見えるように。家森の「お離婚」が聞こえたのだろう。だからそれを意識して、別府と蕎麦を食べるとき「お昼」以外なんで朝と夜には「お」を付けないかという話題を持ち出してしまう。切ない。
すずめは自分の気持を抑え、別府と真紀をくっつけようとする。その理由は「二人とも好きだから」。サボテンに水をやるように、二人の花が咲くよう色々な画策をする。しかし自分の気持を止めることはできない。別府とデートした夢を見たすずめは目覚めると、その夢の続きを追いかけるように走り出す。辿り着いたのは「夢」と冠せられたコンサート会場で、そこにはデート中の別府と真紀がいる。片思いが夢ならば、それは夢の続きとも言えるが、自分が別府と一緒にいないという現実を見ることでもある。すずめは二人が一緒いた安堵感と辛さ合わさり、微笑みながら涙を流す。すずめの微笑みの裏側には、辛さが同居していることが多い。
考えてみれば、ドーナツホールの4人全員が音楽に「片思い」しているようなもので、4人で同じ夢を見ているとも言える。果たして「夢の沼」に沈んでしまうのか、それとも「丁度いい場所」を見つけられるのか...
■ 入れ替わり
今回は「入れ替わり」が何度も提示された。すずめが期待したナポリタンの代わりに蕎麦。入れ替わり立ち替わり蕎麦を食べる4人、など。誰でも気付くように何度も繰り返している。このように、最初から一貫してこのドラマの演出は視聴者に分かり易いようにしている。しつこいくらい半田にアポロチョコを持たせたり、巻家ではカメラ側に花を置いたり、といった具合に。これくらいしないと視聴者には伝わらないと番組制作側は考えているのだろう。
4人の体が入れ替わる夢を見たと別府が言ったのは、『君の名は。』を思い出してもらうためだろう。最後に真紀は早乙女真紀でなく、「誰でもない女」であることが示されるが、「入れ替わり」が何度も提示されたことを素直に延長すれば、真紀もまた誰かと入れ替わっていると考えられる。
すでに第3話で真紀の入れ替わりを予感させるようなことが起きている。すずめは父親に会うことを拒否したが、真紀は病室まで行っている。父親が意識混濁状態なら、娘が最後に会いに来てくれたと思っただろう。そういう意味では、自覚的ではないが、真紀はすずめの入れ替わりの役を既に行っている。
今後真紀がすずめに成り代わり、すずめの過去を引き受けて生きる、みたいな展開があるかどうかは分からないが、すずめは過去という籠の中にまだ閉じ込められているようなので、少なくともすずめに対して何らかの救いがもたらさなければ、このドラマは終われない。すずめはよく眠るが、いずれ「目覚め」が訪れるという流れでもあるように思う。
2017年3月2日木曜日
『カルテット』 第7話
『マツコの知らない世界』では「ダム・カレー」の特集があって、『カルテット』とはまさかのダムつながりだった(笑)。前回は真紀と幹生が出会って離れるまでをシリアス基調で描いたが、今回は一転してコメディー調。クドカンを意識した構成なのだろう。前回と合わせて1話にまとめることも出来ただろうが、結果的に面白かったからいいのではないだろうか。
■ 猫とネズミのエンディング
真紀と幹生が再会したところからエンディングテーマが流れる。まさに二人の関係の「終わりの始まり」といった感じだ。幹生が有朱を殺してしまった(勘違いだが)ことを聞かされた真紀は、自分の身を投げ打って逃げることを提案する。真紀には幹生への愛がまだある。そして幹生も、体を張って有朱から真紀のヴァイオリンを取り戻そうとしたのだから、真紀への愛は残っている。しかし、前回、幹生がすずめに自分の結婚指輪を「指輪に見えるオブジェ」と言ったのは、彼の率直な気持ちだったのだろう。もはや自分にとっては結婚を意味していない、ただの物体に過ぎないのだと。幹生は真紀を巻き添えにすることを望まず、自分一人で湖に沈もうと真紀を置いて車を走らせる。真紀は有朱が乗って来た車で追いかける。逃げる幹生と追う真紀は、ネズミと猫にも例えられる。「ミキオ」という名前はミッキーマウスから来ているのだろう。失踪直前、テレビに映っていたのはカピバラ(大型のネズミ)だった。詩集の栞になってしまった猫の落書きは、真紀が猫好きだったから二人で描いたのだろう。真紀は猫のエプロンもしていたし、「やっぱり猫が好き」だったのだ(笑)。そして二人が猫とネズミなら、共に暮らしていくことは不可能、ということでもある。
唐突に離婚届の話が出て来たのは強引だった。事前に幹生が真紀に離婚届を送っていたことを視聴者に知らせてしまうと、幹生の生存がバレてしまうので、ここでねじ込んできたのだろう。「離婚届はどこで出せばいい?」が前フリみたいになっていて、二人が東京の自宅へ向かうことで、ここが二人の終着点なのだと感じさせる。
別れの予感を背中に感じながら、自宅に戻った二人はかつてそうしたように、ふざけたり、おでんを食べて時を過ごす。それは別れの儀式のようでもあった。そして幹生の「きみには幸せになって欲しい」という言葉が幕引きとなり、真紀は幹生との溝を埋め戻すことができないと悟る。
『鏡の国のアリス』には「同じ場所に留まるためには全力で走らなければならない」というセリフが出て来る。前回、真紀と幹生は二人の間にズレがあることに気づき、何とかしようとそれぞれ走り出す場面があった。結局二人は足を止めてしまい、それが別れを決定づけてしまった。
■ 終わりは始まり
何度も「巻き戻し」のような場面が出て来た。雪の斜面を滑り落ちては上がってくる家森。呼び止められて何度も階段を昇り降りする真紀。バックのまま車を走らせる有朱。家森は真紀は巻き戻って早乙女真紀に戻り、カルテットにも戻ったと言う。だが、真紀が一番望んだ幹生の心は巻き戻らなかった。『鏡の国のアリス』でアリスは丘へ向かおうと歩き出すが、何度やっても元の場所に戻ってきてしまう。真紀もまた同じ場所へ戻って来た。人はそれぞれ違うものだし欠点だってある。それらを許容できないと生き辛い。真紀は幹生と自分の違いを楽しめたが、幹生はそうではなかった。真紀はドーナツホールの面々は欠点でつながっていると言った。彼らは家族など、本当はつながりたかった人とつながれなかった人達の集まりでもある。
ついでに『鏡の国のアリス』のことで付け加えると、前回から何度も花が巻家に登場する(『あまちゃん』の花巻さんは関係ないだろうw)。なくても良さそうだが、『鏡の国のアリス』では喋る花が登場するので、これに因んだものなのだろう。さすがに花に喋らせる訳にはいかないので、代わりに「花言葉」に頼ることになる。
何かの終わりは別の何かの始まりでもある。最後にすずめは真紀といつもタイトルバックで使われる曲で、何かが始まりそうな予感を奏でる。
■ それぞれの望み
今回登場人物にはそれぞれ望むものがあった。家森は逃げ出したサル、有朱は真紀のヴァイオリン、別府は倉庫からの早期脱出、真紀は夫。それぞれの望みはそれぞれの理由で阻まれ、結局誰も望んだものを得られなかった。そんな中、すずめが真紀を取り戻せたことが唯一の救いかもしれない。すずめが真紀をタクシーで追いかけている間、別府は倉庫に缶詰め状態、家森はサル探し、巻鏡子も腰を痛めて動けなくなっている。このドラマでは真紀とすずめの関係性が大きな軸になっているのだと感じさせる。■ 罪と罰
有朱は家森から楽器が高価なことを知ると、青いふぐりのサルなんか探してる場合じゃない(見つかっても10万円で、だいたい闇雲に探しても見つかる訳がない)、とばかりに誰もいない筈の別荘に駆けつける。これはメーテルリンクの『青い鳥』のパロディーでもあるのかもしれない。どこにあるか分からない幸せよりも、有朱はとりあえず金に飛びつくのだと。そう言えば、メイン演出でチーフプロデューサーの土井祐泰はドラマ『青い鳥』(野沢尚脚本)の演出もやっていた。このドラマは逃避行の話なので、今回の真紀と幹生とも重なる。以前有朱は執拗に真紀に絡んでいたので、金のためだけでなく、真紀を困らすことも目的でヴァイオリンを盗もうとしたのかも知れない。しかし、居合わせた幹生と揉み合いになり、転落。命に別状はなかったが、ダム湖に投げ込まれそうになったりと、散々な目にあったので、本人からすれば十分償ったような気でいるのかもしれない。ただ、幹生が有朱を死なせたと勘違いしなければ、すぐに警察に自首してしまい、二人で最後の時間を過ごすことはなかったかもしれない。そういう意味では有朱は貢献しているのだ。真顔で車をバックさせる吉岡里帆を見て、この人がコミカルに振り切った演技がどのくらいできるか見たくなった。
すずめは幹生に拘束され、さらに真紀からも突き放される。すずめは自力で拘束を解いて真紀を追いかけ、コンビニでやっと真紀を捕まえる。私も食事に混ぜて、と言わんばかりに真紀達のおにぎりに自分の分を加える。まるで自分をおいて出掛けようとする母親に必死でついていこうとする子供のようだ。自分が真紀を騙していたことを、幹生に拘束されたことでチャラにしてもらうのも子供っぽい。
真紀はすずめに言う。「抱かれたいの」半分はすずめを振りほどくため、半分は本心なのかもしれない。別荘に戻ったすずめがチェロで弾いた曲は"Both Sides Now"。すずめにとって真紀は、父親の死に際に会いたくないという気持ちまでも受け入れてくれた人である。いつも見ている真紀の母親のような側面と、女の側面の両方を見てしまったのだろう。椎名林檎の『罪と罰』という曲を思い出した:
あたしの名前を
ちゃんと呼んで
体を触って
必要なのはこれだけ
認めて
■ 幹生とすずめの相似
第1話を観たとき、幹生とすずめは兄妹なのではないかと思ったのだが、そういうことではなかったらしい。幹生は平熱が高く、家に帰るとすぐ靴下の脱ぐ。すずめも演奏前に靴下を脱いで裸足になったり、三角パックの冷たいコーヒー牛乳を冬でも飲んでいるので、暑がりなのは確かだろう。幹生はレモンが嫌いなことや、気持ちが離れていることを真紀に言えずにきた。結局真紀を騙してきたわけだ。すずめも最初から真紀に嘘をついて騙していた。こうした幹生とすずめの相似は、真紀が幹生を失った後、すずめがその代わりのような役割をする、ということを示しているのではないか。次回の予告だと、すずめは自分の別府への気持ちを抑え、真紀と別府の仲を取り持とうとするらしい。「幸せになって欲しい」と願った幹生の気持ちを引き継いでいるのかも知れない。2017年2月22日水曜日
『カルテット』 第6話
今回はクドカン主演のドラマになっていた。番組が終わった後、別ドラマの予告で阿部サダヲが出てきて、どんだけ大人計画に染まってるんだよ、となるし、『マツコの知らない世界』に続いて『カルテット』を観ると、松たか子を松マツコと言いそうになったり、火曜日はカオスになる(笑)。
■ 真紀と幹生
二人の出会いから幹生が失踪するまで、交互の視点から描かれた。これまでもエンド・タイトルに本編が食い込んでいたが、今回はとうとう完全に4人が歌う映像が無くなった。そこまでしても、二人のことを出来るだけ細かく描写したかったのだろう。幹生は結婚しても恋人気分でいたいと願い、真紀は家族ができた幸せを噛みしめるため、ヴァイオリンを捨てる。そんな二人が少しづつずれていく様子が描かれた。幹生の気持ちは真紀と出会って凧のように舞い上がったが、風が止めば凧は落ちる。好きな詩集や映画を真紀とは共有できない。特別な人に見えた真紀は、ヴァイオリンを止めてどんどん普通の主婦になっていく。真紀にとってそれは幸せのカタチだったが、幹生にとってはそうではなかった。会社での立場からも分かるように、幹生もまた不器用な人だ。
そんな幹生が唐揚げにレモンをかけるのがイヤだったことを真紀は知ってしまう。そうした小さなことでさえ自分に言ってくれてなかったのだとショックを受ける。マキマキになってもいいと思って結婚したのに。二人はお互いにすれ違っていることを認識して話し合おうとするが、結局二人とも逃げてしまう。
ささやかな嘘が人を大きく傷つけることがある。真紀がベンジャミン瀧田の嘘に嫌悪感を見せたのも、幹生のことがあったからだろう。
■ 捕獲
家森は逃げ出した「青いふぐりのサル」をバイトで探しに行くが、ケージだけ持ってウロウロしている。絶対ノープランだ(笑)。家森と幹生は病院でバナナを食べていたので、順当に行けば「逃げ出したサル」とは幹生のことでもあり、家森が捕まえることになるのだろうが、果たして...家森がサルを捕まえに行く様子はメーテルリンクの『青い鳥』をちょっと思い出させる。この中に出てくるのはチルチルとミチル。マキマキとミキオに何とな~く似ている。あくまで、何とな~く、ね(笑)。
サルを捕まえようとしている家森とは対照的に、別府は会社の倉庫に閉じ込められる。誰かに捕獲されてしまったかのようにも見える。すずめも拘束されて動けなくなっている。てっきり幹生が警察に通報されないようにそうしたのかと思ったが、次回のあらすじを見ると含みがあるようだ。最後の部分は時間的に飛ばされていて、次回全貌が明らかになる、ということだろう。
有朱が別荘に入れたのは、家森を騙して鍵を奪ったのだろうか?真紀のヴァイオリンを盗むが、大事そうに抱きかかえたりしたところを見ると、売り飛ばして金にしようということではないらしい。有朱は幹生と揉み合いになり2階から転落。別府、すずめ、有朱の3人が同時に身動きできなくなったのは、何か意味があるのだろうか?
■ 幹生とすずめ
今回も触れられたが、幹生は平熱が高い。冷たい物が好きだったり、演奏のときに靴下を脱いで裸足になってしまうすずめも平熱が高いのではないか?二人の関係性が気になるところだ。すずめがサロペットの胸ポケットからスマホや体温計を取り出すのは、ドラえもんみたいで面白かったが、幹生がすずめの前で懺悔しているような姿は、『ごめんね青春!』を思い出してちょっと面白かった。■ 富澤たけしと八木亜希子
谷村夫婦の場面は、だいたいコントや漫才の延長みたいになっている。もちろんサンドウィッチマン・富澤に合わせて脚本を書いているからだが、おかげで八木亜希子が巻き込まれた形になってしまっている。もっと出来る人なので勿体ない気がする。ただ、富澤も厨房で料理作ったり、誰かに「早くしろ!」とか怒鳴っている様子が想像できて、雰囲気はそんなに悪くないと思う。■ クドカンと『あまちゃん』
今回は全般的にシリアスだったが、それでも遊び心は忘れない。クドカンが『あまちゃん』のロケで使われた秋葉原や谷中に現れたり、真紀と幹生の最初の出会いがタクシーだったりする。春子がたまたま正宗が運転するタクシーを止めたのが最初の出会いだった。もし「太巻」というあだ名だけ聞かされてどういう人か想像すると、真紀を一緒にタクシーに乗せた幹生の同僚みたいな人じゃないかな?同じような眼鏡もかけてたし、タクシーが「寿司詰め」状態にもなった(笑)。別府が倉庫に閉じ込められたときの既視感は、『あまちゃん』で震災が発生したとき、ユイがトンネルの中で北鉄に閉じ込めれたのを思い出したからだろう。このときユイはケータイのバッテリーが切れそうだと言っていた。とても良くないことが起きてしまった雰囲気が漂う。
今回クドカンが主演状態だったのは、これだけでも快挙のような気がするが、作り手の最大級のリスペクトの表れだろう。次回も出番は多そうだし、どこまで『あまちゃん』のオマージュが入ってくるかも楽しみだ。
2017年2月18日土曜日
『カルテット』 第5話
■ 粗過ぎるあらすじ
音楽プロデューサー朝木(浅野和之)がおだてているのは分かっていながらも、ドーナツ・ホールはクラシック音楽のライブに参加することを決める。しかし意に沿わぬことをやらされ、結局一度だけでやめてしまう。すずめは真紀を探るのをやめることにするが、代わりに来杉有朱がその役を引き受けたことを知る。
■ 人の表と裏
人は必要に迫られ、表や裏の顔を使い分けるようになっていくものだ。それは自分を守るためのものであり、他人と何とかやっていくための手段であもる。今回は登場人物たちの表と裏の顔が次々と提示されていく。
巻鏡子は真紀の顔を見ると豹変し、気のいい義母を装って真紀と接する。二人はいつもこんな感じだったのだろうが、真紀を疑っている気持ちは完全には隠しきれず、別府が一緒にいることが分かると、寝室をチェックしたりする。鏡子が背中を向けて真紀のマッサージを受ける姿は象徴的だ。真紀に対しては正面を見せず、ずっと背中を向けてきたのだろう。
別府の弟である圭(森岡龍)は表の顔は出てこなかったが、別府が自分以外の家族はみんなすごいと言っていたので、音楽業界でそれなりの人なだろう。どうやら別荘を処分したいらしいが、体裁を考え、家森たちに仕事を世話して出ていってもらおうというハラらしい。実際朝木を使って仕事を用意している。別荘処分の話は今後の伏線になるのだろう。
朝木は「我々三流は楽しめばいい」と真紀達ドーナッツ・ホールの面々に言う。要は「お前らも所詮3流。つけあがるな」ということだ。最初に褒め殺しのようなことを言ったときの仮面を取っているかに見えるが、ライブが終わって真紀達が去った後、「志のある3流は4流」と言い、ここで始めて本当の顔を覗かせる。
有朱もまた真紀の前で本性を見せる。土足で真紀の心の中にズカズカと踏み込んで来た彼女が言いたいことは、要は夫婦でも表の顔と裏の顔を使い分ければいいじゃないか、ということになるだろう。有朱も地下アイドルから地上に上がれなかった人で、真紀たちと同じような立場であり、真紀と同じようにネガティブな思考だ。違うのは真紀が自分を否定的にとらえるのに対して、有朱は他人を否定的にとらえることだ。
有朱は裏表を上手く使い分けられないような大人がまだ夢を追っていること自体に苛立っているようにも見える。有朱もまだ大人になりきれてないから直球で勝負しているが、これは第1話で真紀を追求したすずめと似ている。すずめは偽りの微笑を浮かべ、自分を守るために嘘もついて来ただろう(だからとっさに「猫があぐらをかいてた」とか少しひねった嘘も言える)。地下アイドルだった有朱も同じようなことをしてきたとすると、二人には共通した部分があるということだ。真紀を責めているかのような有朱だったが、彼女もまた裏表を上手く使い分けられなかったから、学級崩壊させたりしたのではないか。自分と似ていると余計に腹が立つというのは、よくあることだ。
コスプレもまた別人格を装うという意味で、仮面と同じ機能を持つ。「愛死天ROO」のコスプレをし、エア演奏もやるが、結局一度だけで止めてしまう。ここからもドーナツ・ホールは、表と裏の顔、建前と本音を上手く使い分けられない人達の集まりだということが分かる。そんな彼らの着地点を描くのが、このドラマのゴールなのだろう。
■ すずめと真紀
「ノクターン」でドーナツ・ホールの面々が同時に言葉を発してしまうのは、それだけ息がピッタリ合ってきたということだろう。すずめは最初から真紀を裏切り続けているようなものだが、裏表の顔を使い分けられないメンバーの中にあっては、裏の顔を持ち続けてきたすずめはカルテット全体をも裏切っているようなものだ。疑惑から始まったすずめの真紀に対する気持ちは、完全に信頼へと変わった。しかし、そんな真紀をすずめは失うことになる。
有朱が執拗に真紀を追求した時、すずめは何とか遮ろうと言葉をぶつけてくる。だが「ノクターン」の時とは違って、有朱とは息が合わないのでタイミングはズレる。それでも懸命に邪魔をするが、結局核心である真紀の夫の失踪まで、有朱を辿り着かせてしまう。そして有朱が落としたレコーダーに録音された内容と、義母・鏡子が使っていたバッグの花がすずめに付着していたことから、真紀はすずめが義母から頼まれて自分を探っていたことに気付く。この時の松たか子の演技は、これだけでもこの回を観た甲斐があったと十分思わせるものだった。「ありガトーショコラ」から甘くほろ苦いショコラが消え、他人行儀な「ありがとう」に変わる。すずめにとっては「さようなら」と同じだ。
真紀がベンジャミン瀧田を追い出したのは、彼が嘘をつく苦痛や家族のもとへ戻る可能性を作るためかとも思ったのだが、真紀にとっての第一の理由は彼女の言葉通り、瀧田が嘘をついていること自体にあったようだ。真紀には嘘に対する拒絶反応みたいなものがあったらしく、それは他人に対してだけでなく、自分が嘘をつくことにも心理的抵抗があるようだ。第1話では今回の有朱と同じように、すずめが真紀を追求する場面があった。すずめは嘘をつくことに慣れていて、ロールケーキを持ち出したりして気を逸らそうとしたのに対し、すずめに追求された時の真紀は「A(アー)下さい」を繰り返すだけだった。これは真紀の不器用さというよりも、嘘をつきたくない為に同じことを言い続けるくらいしかできなかった、ということではないか。真紀がすずめが父親に会わないという選択を受け入れたのは、嘘偽りのない本当の気持ちだったからだろう。
前回真紀は家森の言葉をノドグロとか反対の意味に変える、という微妙な嘘をついていたが、今回のライブでのエア演奏は、完全な嘘である。それを真っ先に受け入れたのは真紀だった。真紀は自分を否定的にとらえているので、三流であることを認めるのは、そんなに難しいこととは思えない。それよりも嘘をつくことに同意する方が彼女にとっては困難だった筈だ。今回真紀はそれをやってみせた。そして嘘をつくのに慣れている筈のすずめが今度は拒否の姿勢を示す。もう嘘をつきたくないという気持ち傾いてきている。二人の気持ちが変化してきていることは、頭に入れておいた方が良さそうだ。
■ メタメタする
脚本の坂元裕二には、あまりメタ的なものを入れてくるイメージがなかったのだが、『カルテット』に関しては、かなりやっているように見える。第3話のときにも触れたが、『愛のむきだし』を意識してそうだった。今回はメタの王様的な宮藤官九郎が真紀の「夫さん」役として出てきたので、彼の作品に関係した『カルテット』の出演者をまとめてみよう。
『あまちゃん』組は松田龍平、八木亜希子、森岡龍。『ゆとりですがなにか』組は安藤サクラと吉岡里帆。他に松たか子は舞台『メタルマクベス』(『マクベス』の脚色)、満島ひかりは『ごめんね青春!』、高橋一生は『池袋ウエストゲートパーク』と『吾輩は主婦である』に出演している。
第2話では別府の眼鏡が割れたことよりも、九条結衣と別れさせることに、より強いメッセージを感じた。『あまちゃん』で松田龍平は足立結衣(ユイ)のマネージャー役だった。同じ名前の結衣と別れさせることで、『あまちゃん』でついたイメージをこのドラマで払拭してやる、という脚本家の意気込みを感じた。別府は九条結衣の部屋に泊まっても何も起こらなかったと言っていたので、九条結衣は天野アキも内包していると考えることもできる。
メタの部分を意識すると、満島ひかりが教会にいるだけで『ごめんね青春!』を思い出して面白いし、『ゆとりですがなにか』で教育実習生役をやっていた吉岡里帆が演じる有朱が学級崩壊させたくだりも、別の意味で面白くなる。どこまで意識してやっているかは分からないが、こういうのもドラマ、というかフィクションの楽しみ方のひとつであると思う。
■ ドラマの表と裏
前のブログで家森諭高というキャラの原型はハンプティー・ダンプティーではないかと書いた。これはルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』にも登場する。鏡の国でアリスは赤の王の夢の中の登場人物に過ぎないと言われる。『カルテット』ではクドカン作品に出演した俳優が数多く出演し、さらにクドカン本人も出てきた。脚本家が描いた世界を「夢」とするなら、夢を見ている人とその夢の中の人物が同じ世界にいるという点で鏡の国と同じだ。そして『あまちゃん』もまた、鏡の国のようでもある。北三陸編と震災までの東京編は対称的に作られていて、鏡の中の世界のようでもある。春子が夢見たアイドルの世界に、東京で娘のアキが入ったことを考えると、もっと鏡の国と近いものになる。
クドカンがよく使うメタ的なアプローチや、童話など他のものを下敷きにした作劇、笑いの裏にメッセージを仕込む、といったようなことを、このドラマはこれまでやって来た。そして今回、ドーナツ・ホールが意に沿わないライブをやることは、『あまちゃん』で他に選択肢がなく、太巻の言われるまま影武者をやってしまった天野春子のようでもある。ライブ本番で結局自分たちの演奏ができない姿は鈴鹿ひろ美だ。まるでドラマの裏側で着々とクドカンが登場する舞台を整えていたかのようだ。表側からは、クドカンはいかにも母や妻から逃げてしまいそうな男に見えて最適だが、裏側からもクドカンの配役は『カルテット』というドラマでは必然的、と言えるほどに強い結びつきがあるように思える。
2017年2月12日日曜日
『カルテット』 登場人物名の意味
脚本家や作品によって登場人物の名前の付け方は違う。坂元裕二の場合は名前に意味を持たせることが結構あるような気がする(例えば『わたしたちの教科書』や『問題のあるレストラン』に出てきた「雨木」)。脚本家にヒントを出すつもりがなくても、作品やキャラに絡めたネーミングであれば、見る側からすれば作品のヒントになる。『カルテット』ではキャラの名前に意味がある場合が多そうなので、自分なりの推測を書いてみようと思う。
・家森諭高
前にも書いたように、森には3つの木があるので「家森」には「3人の家」という意味を込めたのだと思う。「諭高」は文字通り、「高いところから諭す」でキャラを表している。第1話から家森はあれこれ御託を並べているが、第4話では自分の部屋に3人が来たとき布団の上に座らせ、自分だけ机の前の椅子にすわって高い位置から離婚の経緯を話していた。茶馬子が別荘に来た時は階段横の壁に座り、わざわざ高い位置から話している。そんな上から目線で物事を語る家森だが、肝心なところで致命的なことを茶馬子に言ってしまい、結局家族を失うことになった。高い所から落ちて壊れた『マザー・グース』のハンプティー・ダンプティーが発想の元になっているような気がする。駅の階段から落ちて入院するくらいの怪我もしてるしね(笑)。
・世吹すずめ
「渡来」は"What's a lie?"、「世吹」は"safe key"(金庫の鍵)なだろう。「世吹」は「せぶき」なのだが、いいんじゃないかな(笑)。納骨ボックスの鍵をすずめは「金庫の鍵」と誤魔化していたので、それに由来するのだと思う。「すずめ」は前にも書いたように、日本の昔話やイタリア語の"cello"が「小さい」にも由来するのかもしれない。
・別府司
別府と言えば温泉で、地獄巡りの湯を思い出す。「地獄を司る」のはエンマ大王。第8話で別府と真紀をくっつけるためにすずめは嘘をつくし、結果的に別府へ告白できなくなるのを「舌を抜かれた」とみなしてもいいのかな、と思う。
・巻鏡子
結果的に真紀とすずめを結びつけるきっかけになったのは鏡子の疑惑からだった。真紀とすずめは鏡像関係。二人とも父親に傷つけられ、名前を変えている。
・来杉有朱
有朱はルイス・キャロルの童話に出てくるアリスからとったものだろう。「地下アイドル」は「不思議の国」を、「淀君」は「鏡の国」(白のポーンからクイーンになる)を連想させる。実際このドラマには『アリス』が元になっているような要素が散りばめられている。前述のハンプティー・ダンプティーは『鏡の国のアリス』にも出てくる。
「来杉」は『夢の途中』(『あまちゃん』に出演した薬師丸ひろ子版は『セーラー服と機関銃』というタイトル)を作詞した来生えつこから来ているのではないか。吉岡里帆は『ゆとりですがなにか』での役名は佐倉悦子だった。『夢の途中』というタイトルは、有朱というよりも、ドーナツホールのメンバーの状態にふさわしいではないか。
・巻(早乙女)真紀
すずめ、別府、家森を「巻き込んでいる」が、第7話では「巻き戻って」早乙女になったと言われる。プロデューサーのインタビューによると、このドラマの発端は『やっぱり猫が好き』みたいなことがやりたいね、ということだったらしい。猫の落書きを描いたり、猫のエプロンをしていたので、真紀は猫好きということだ。ドラマの中で真紀は猫、幹生はネズミに例えられている(直接的ではないが)。猫とネズミが一緒に暮らすのは無理だということであもる。幹生は有朱を殺したと勘違いして「一緒に沈んでくる」と言って真紀をおいていくが、彼女は必死に追跡する。この追う、追われるの図式も猫とネズミだ。
・巻幹生
「ミキオ」という名前は「ミッキーマウス」が由来でネズミを表しているのだと思う。幹生が失踪する直前、テレビの画面にはカピバラ(大型のネズミ)が映っていた。元カノも猫好き(ギロチンという名前の、破壊力がありそうな猫を飼っていた)だったので、そんなところは真紀と共通している。
クドカンとミッキーと言えば、『あまちゃん』に出てきた「子供は喜ぶが、大人は胃が痛くなる」ネズミの絵を思い出してしまう...
2017年2月9日木曜日
『カルテット』 第4話
第4話をざっくりまとめると、家森には別れた妻・大橋茶馬子(高橋メアリージュン)と息子がいて、一時はヨリを戻すことを考えるが、結局音楽を取ることになる。一方別府は、あれだけ強く拒絶されて諦めたと思っていたら、真紀に再度迫っていくという、なかなかの恋愛ゾンビぶり見せる(ちなみに松田龍平はゾンビの真似が得意らしいw)。ゴミ出しの時の怒り方といい、別府の不穏さが首をもたげて来たようだった。家森も真紀を脅して金を巻き上げるつもりだったことを告白し、暗黒面をのぞかせた。
家森の話は類型的な気がした。その分普通のドラマに近づき、この方が見易いと感じた人もいるだろう。その代わりのサービス、なのかどうか分からないが、表面的な笑いだけでなく、隠れた笑いも多かったように思う。
■ 捨てられないもの、変えられないもの
半田(Mummy-D)にヴィオラを奪われた家森は息子のもとへ向かう。音楽を奪われてはじめて、ずっと尾を引いていた元妻と子供に向き合う気になったわけだ。これは第2話の別府の時と同じパターン。目の前に2枚の紙が重なってあるが、手前の方しか見えない。別府の場合は一枚目の紙である真紀が取り除かれてやっと2枚目の紙である結衣が見えた。家森の場合は1枚目が音楽で、2枚目が元妻と子供。同時に複数のことを考えられない、男性の一般的な傾向が反映されている。
冒頭で誰もゴミを捨てないと別府は怒っていたが、捨てられなかったのはゴミだけではない。家森は結婚していた時は音楽を捨てられず、離婚後は元妻と子供のことを引きずっていた。家森はアジフライにソースをかけることを止められない。自分のスタイルというものが変えられない人で、茶馬子はそのことを理解していた。儀式のように息子と合奏した後、家森は元妻と息子と別れることになる。心の中にポッカリ穴が空いた状態だろう。ベンジャミン瀧田が言ったように、欠落をかかえて家森は音楽を続けることになる。「家森」という名前には木が3つあり、「3人の家」というのを表していたのだと思う。
真紀は夫への思い、別府は真紀への思いを捨てられない。真紀は家森をフォローするため、彼が言った茶馬子への悪口を、反対語のようなものにしてに伝えてみせた。ピラニアはノドグロに、デスノートはドラゴンボールといった具合に。しかし、茶馬子の気持ちを変えることはできなかった。
真紀は今度、別府から「愛しいは虚しい」など、相反する気持ちが同居していると伝えられる。それは剥かれた甘栗のように、別府の気持ちをありのまま表現したものだろう。真紀が言った反対言葉は嘘だったが、ときには反対の言葉も真実になる。
真紀の義母である巻鏡子もまた息子を信じる気持ちは変わらないし、真紀への疑念を捨てられない。雪の中に眼鏡を落としたまま強制連行されるように軽トラで去って行ったが、真紀はその眼鏡に気付いたのだろうか?もたいまさこは映画「めがね」でかき氷を作っていた人でもあったw。
ゴミはいずれ捨てねばならないが、思いを捨てるのは難しい。第1話で真紀はベンジャミン瀧田を追い出した。人を騙しながら音楽を続ける苦痛から開放し、その代わり瀧田を追いやった痛みを抱えながら音楽を続ける道を選んだようにも見える。別府は結衣を、すずめは父を失い、自分の気持に区切りをつけるしかなかった。今回茶馬子は家森が致命的なことを言い、もはや元に戻ることはないという事実を突きつけた。思いがすぐに消えてなくなることはないだろうが、どこかで区切りをつけることが生きていくためには必要なのだろう。
■ アポロン
半田がいつも持っているアポロチョコ。いかにも何か意味ありげだが、半田はギリシャ神話に出てくる神、アポロンのような存在になっている。
アポロンは医術の神であり、疫病神でもある。半田は風邪を治そうとチョコと風邪薬を混ぜて服用するが、これが彼なりの治し方なのだろう。風邪は人にうつすと治ると言うが、結局家森にうつすことで治っているように見えるw。
アポロンは節度のある神とされるが乱暴でもあるという、ちょっと矛盾した存在。半田はゴミを捨ててくれたりする一方で家森をす巻にして階段から落とそうともする。
アポロンは音楽の神でもある。半田役にライムスターのMummy-Dが選ばれた理由の一つだろう。半田は家森からヴィオラを奪うが、わざわざ軽井沢まで来て丁重に返却してくれる。音楽の神から音楽をやっていいよ、というお墨付きをもらったかのようだが、当の神様は冬の軽井沢で『二人の夏物語』をヘビロテしているのだから、なんとも心許ないw。
■ 赤茶馬子
このドラマでは焦点を当てたい人物に赤いものを着させ、視覚的に目立つようにしている。今回は茶馬子がずっと赤いセーター。すずめは第1話から赤いセーターを着ていたが、今回はなし。男に捨てられ、子供を連れて行かれた茶馬子は、別府がゴミを捨てないと怒っていた同じ場所にやって来て怒りをぶちまける。茶馬子の赤は「怒り」を表しているようにも感じられた。
前回の蕎麦屋のシーンでは、すずめが赤いセーター、真紀は緑の服で蕎麦屋の壁も緑だった。映像的にすずめが際立つような配慮だが、赤がすずめの「痛み」を表し、補色の緑色で中和させようとしているようにも感じた。第1話ではベンジャミン瀧田に緑のマフラーをさせ、赤い帽子がより映えるよう配慮されていた。
「茶馬子」という名前は下手なキラキラネームを黙らしてしまいそうだが、どうやらちゃんと意味があるらしい。岩手県の滝沢市と盛岡市で毎年行われている「チャグチャグ馬コ」という祭りがある。昔この地方では農耕に使っていた馬を家族のように大切にしていて、年に一度馬を休ませるため、神社にお参りしたのが始まりらしい。そのとき馬を飾るのだが、大小の鈴もつけられ、歩くと「チャグチャグ」という音に聞こえるのが名前の由来だそうだ。茶馬子が独特のピンポン(呼び鈴)の鳴らし方をするのは、これに因んだものだろう。東北の祭りが由来だと分かると、茶馬子が一貫して関西弁をしゃべり続けるのがより一層楽しくなる。
家森はあまり働いてなさそうだったので、茶馬子が生活のために働いていたという含みもあるのかもしれない。家森は6千万の宝くじだけでなく、家族として大切にすべきだった相手をも失ってしまった。
茶馬子もすずめもトイレのスリッパを履いたままだった。二人には共通するものがあるということか。家森はもう第1話あたりですずめの寝顔に見入ったりしてた。
■ フレール・ジャック
日本では『グーチョキパーでなにつくろう』として歌われることが多いフランスの民謡。元の歌詞には今回とリンクしそうなものがある。「お眠りですか?」は車の中で眠るすずめを思い起こすし、「朝のお勤めの鐘を鳴らしてください!」はゴミ出しという朝のお勤めををサボっている3人に向けた言葉であるようにも思える。
■ 流れの変わり目
1クールの連ドラではだいたい4話目くらいでパターンを変えてくることが多い。前回までは真紀が誰かの痛みを和らげるような役割だったが、今回は3人がかりで家森を癒そうとしていて、これまでと違う印象だ。別府と家森、有朱も不穏な空気を出し始め、何かが起きそう気配だ。最後は露骨に次に続くよ感を出して来た。第5話で第1幕終了ということなので、次回とセットになっていると考えた方がいいのだろう。
2017年2月1日水曜日
『カルテット』 第3話
すずめの過去が明かされた。子供のときに父親の超能力詐欺に巻き込まれていたのだ。それ以来、すずめ自身がまわりから白い眼で見られ、いつも自分の居場所がなかった。来杉有朱(吉岡里帆)の恋愛教習所(笑)で特別講習を受けたすずめは、別府への接近を試みるが、父親の命が長くないことを知らされる。
■ ボーダー ~交わらない線と線
ボーダー柄の服は何を意味していたのだろうか?2つの意味を持たせていると思う。そのひとつが「交わらない線と線」。これはすずめと父親を表している。
すずめは自分を詐欺事件に巻き込んだ父親を許すことが出来なかったし、憎んでもいただろう。すずめは家森の一枚しかないパンツ(男の下着をランジェリーって言うなw)を暖炉で燃やしてしまう。第1話からフリがあった家森のパンツがここに着地するとは思わなかった。このパンツはボーダー柄でもあった。男物でひとつしかないもの。これはすずめの父親の暗喩で、すずめがそれを燃やしたということは、父親に消えて欲しいという願望があるか、すでに心の中では無いものにしている、ということだろう。
「てんきよほう」は上唇と下唇をくっつけずに発声できる。有朱は巻鏡子とすずめに「こんにちは」の後すぐに「さようなら」で立ち去る。これらは「非接触」のイメージで、「交わらない線と線」に対するヒントなのだろう。
「ボーダーを着ていると特別な関係に見える」というセリフの後、すずめを探しに来た岩瀬純(前田旺志郎)はボーダーを着ていた。この時ボーダーを着ていた真紀は、後ですずめの父親の入院する病院へ行くことになる。ボーダーが父親と結びつくことのヒントのようにもなっている。
『問題のあるレストラン』では主人公の田中たま子が自分と門司の関係を例えて「2つの直線は1点で交わった後はもう交わることはない」と言っていた。脚本の坂元裕二は線を使った例えが好きなのかも知れない。
■ 境界を越える真紀とすずめ
ボーダーのもう一つの意味は「境界」。病院近くの道路をはさんで、真紀とすずめは並行して走るが、その様子はまさに2つの平行線を描いているよう。真紀はすずめを呼び止め、道路を横断してすずめの腕を掴む。二人の間にある境界を乗り越え、接触した瞬間だ。2つの線が意志の力で交わったと言ってもいい。蕎麦屋で真紀はすずめに亡くなった父親のところへ行かなくてもよいと言う。線と線を無理に交える必要はない、許さないことを許すのだと。それはすずめにとって何よりもの救いの言葉だったろう。
父親の呪縛から開放されたすずめは、別荘に戻ったとき別府にキスをする。これはペットボトル一本分の境界を飛び越えることであり、有朱が言った「女からキスしたら男に恋は生まれません」を無視することでもある。そのときすずめは「WiFiつながりました」と言う。別府とつながっただけでなく、孤立し続けたすずめが、この世界とつながった瞬間でもあるように感じられる。
■ 孤立とズレ
千葉は軽井沢よりもずっと南なので、真紀とすずめの格好は場違いな感じを与える。ケーキと日本茶の組み合わせも普通の感覚からはずれている。さらに蕎麦屋のラジオからは稲川淳二の怪談が聞こえてくる。真冬の怪談も一般的な感覚からはずれている。真紀は一度はラジオを消すが付け直す。すずめが父親の最期に会わないという、世間一般の感覚から外れたものでも、真紀は許容するというサインだった。
真紀とすずめが軽井沢の別荘に戻ったとき、家森と別府はイルミネーションを飾り付けている最中だった。クリスマスの時期ではないので、これもずれていると言えるが、すずめを喜ばそうとした訳だから、「優しいズレ感」とでも呼んだ方がいいかもしれない。このドラマはそうしたズレをも包み込む。
すずめはバッハの『無伴奏チェロ組曲』を弾きだしてすぐに止め、チェロにキスするような仕草をした後、別の曲を演奏し始めた。ここにもあるべきものから外れてしまっても良い、好きな曲を弾けばよい、というメッセージとともに、自分はチェロとともに生きるのだという決意も感じられる。それにしても満島ひかりがチェロを演奏している姿は圧巻だった。
すずめは父親と縁を切っても、テレビを使って大きな詐欺事件を起こしたせいで、どこへ行っても過去がバラされ、いつも居場所を失っていた。真紀は夫が失踪し、義母からは疑われ、孤立した状態にあるようだ。別府も家族はみんなすごいんで、と言っていたので、自分だけそうではないという孤立感を持っているようだ。家森のことは次回で分かるだろうが、やはり孤立した存在なのだろう。真紀とすずめが別荘に戻ったとき、「ただいま」と言う。男二人は「おかえりなさい」。別荘はそんな4人が家族のように暮らせる唯一の場所なのだ。
有朱も妹の口振りでは、家族を始めとする周囲とソリが合わず、孤立している感じだ。4人と関わることで何かが動き出すのだろう。ノクターンは今のところ「問題のないレストラン」(笑)のようだが、有朱が何かしら波乱を持ち込む可能性があるように思う。
■ すずめという名前
『スズメとキツツキ』という昔話がある。ドラマの中にも虫や米が出て来るので、今回の話はこの昔話を踏まえたもので、「すずめ」という名前の由来もここから来ているのかもしれないが、他の理由もありそうな気がしている。
スズメという鳥は人が近づくと必ず逃げる。人に近づかないイメージは職場で笑顔を絶やさないが、決して人に近づかないすずめのイメージと合致しているように思える。また、イタリア語で"cello"は「小さい」という意味があり、これもスズメにつながるように思える。
■ すずめの秘密はこれで全部?
すずめの名字が世吹ではなく、綿来だった。世吹はすずめが勝手に名乗っているのか、それとも親戚の養子にでもなって実際に名字が変わっているのか?人の眼から逃れるため、そうしたとも十分考えられる。
第1話からすずめが冷たい物(牛乳やアイス)が好きなこと、汗かきであること、演奏前に靴下を脱ぐこと(これらの原因はひとつだが)が繰り返し提示されてきた。これは単に視聴者の興味を引きつけるためのダシだったのか?それともちゃんと意味があるのか?すずめの秘密が今回で全部分かったと思わない方がいいかもしれない。
■ 『愛のむきだし』
声だけの出演だった安藤サクラは満島ひかりと園子温監督の『愛のむきだし』で共演している(吉岡里帆とは『ゆとりですがなにか』で共演)。『愛のむきだし』では満島ひかり演じるヨウコを自分が所属するカルト教団に引き入れる役だった。今回は逆に職場から追い出す側だったことがちょっと面白い。
また、同映画は主人公がクリスチャンの母親に「マリアのような女性をみつけなさい」と言われ、ヨウコが主人公にとって唯一無二の女性であり、彼のマリアを手に入れようともがく話でもあった。第2話で別府が真紀に魅せらたとき、真紀が弾いていた曲は『アヴェ・マリア』(「こんにちは、マリア」という意味らしい)だった。今回真紀はすずめに救いを与えている。真紀は3人とってマリア的な存在になるのかも知れない。
『愛のむきだし』の主題歌はゆらゆら帝国の『空洞です』。これは「ドーナツの穴」につながるイメージ。このように『カルテット』には随所に『愛のむきだし』へのオマージュが感じられる。
2017年1月26日木曜日
『カルテット』 第2話
別府の恋愛回だった。別府が意外とグイグイ(笑)で、真紀に告白してフラれた後、九条結衣(菊池亜希子)にも告白する。別府は結衣に対して「行けたら行くね」状態だったが、いざ行ってみるともう席は無い。結衣は自分も別府もズルい、と言う。二人は最後の思い出だけ作って別れることになる。壊れたメガネは別府の気持ちを表している。寒いベランダでラーメンを食べるシーンは『問題のあるレストラン』(ビルの屋上にレストランがあった。菊池はこちらにも出演)を思い出した。
はじめに書いてしまうが、この第2話は傑作だと思う。過度に泣かすようなことはせず、笑いも入れながら抑制の効いた作品に仕上げられている。脚本の精緻さに呆然としてしまう。その凄さがここに書いたもので伝わればいいのだが。ただ表面を見ればすぐ分かるようなことは、必要最小限に止めたいと思う。どうせ他の誰かが書いてるだろうから。ここでは余り触れてなさそうな点を中心に書く。
■ カーリングと真紀の役割
カーリングのくだりが無くても話は成立する。わざわざ残しているのは、そこには意味があるということ。カーリング用のストーンを見つけ、それを押し出したのは真紀。たぶん重いストーンは別府の心で、どこにも動けなかったそれを結果的に後押しするのが真紀、ということだろう。別府は真紀に告白し拒否されたことで、はじめて自分の結衣への気持ちに気付く。まだ分からないが、別府だけでなく、他の二人も真紀に後押しされる形で、今まで抱えていたものを清算することになるのかもしれない。前回も真紀以外の3人が氷の上で転ぶシーンがあった。今回別府は失恋した(しかも二重に)ので、それを「転んだ」と捉えることもできる。そして立ち上がるのを助けるのも真紀の役割かもしれない。
■ 左手で騙す
巻鏡子が手品師は「右手で注意をひきつけ、左手で騙す」とすずめに語った。すずめは別府が両手で持ったアイスのうち、左手の方を選んだ。その前にすずめは別府が真紀を好きなことを確認し、自分は家森が好きだと言っている。左手のアイスを選んだのは、さっきのは嘘だったという表れか。二人はコンビニの外にあるベンチに並んでアイスを食べたが、間は少し空いている。別府と結衣はベランダでくっつきながら温かいラーメンを食べた後、別れた。2つのシーンが対比的に描かれているので、今後は別府とすずめの距離が縮まっていくのだろう。
ドラマの最後の方で、すずめはワインの空き瓶2本を捨てようと左手で持つ。この時すずめは真紀に嘘をつく。自分は別府のことが好きではないと。真紀は誰かを好きな気持ちは勝手にこぼれるものだと言うが、おそらく真紀はすずめが別府の写真を見ていたことに気付いている。自分のスマホが見られたことも気付いているかもしれない。真紀はすずめが線香の匂いがして謎だとかカマをかけている。この二人の騙し合いが今週一番「みぞみぞ」したところだ。
■ 白と赤
白は結衣を象徴する色。結衣は白を着ていて、『White Love』が好きなのだろう。九条ネギだから白、でもいいと思うw。もちろんウェディングドレスのイメージも白だ。『アヴェマリア』は別府が初めて真紀に会ったときの曲。結衣の結婚式で別府が独奏した曲は『アヴェマリア』から『White Love』に変わる。「別府くんもズルい」と言った結衣への答えでもあるようだ。別府の気持ちが真紀からいつの間にか結衣に向いていたことを表し、それが本当の別れとなる。
結婚式の後、別府はX Japanの『紅』を歌う。このときコルセット的なものを首に巻いている。別府が結衣と別れた後、首に巻かれていたのは結衣の赤いマフラーだった。赤は結衣との思い出を象徴する色となった。別府はもう『White Love』を歌うことはないだろう。赤いマフラーにつながる『紅』を噛み締めながら歌うしかない。すずめが赤を着ていることが多いので、別府がすずめへ向かう暗示でもあるのかもしれない。
白と赤はワインの色でもある。前述したようにワインの空き瓶2本を捨てようとしたのは、すずめ。さらに空き瓶を洗っていたのは真紀だ。ここには、真紀が別府の思いを清算させていること、そしてすずめが別府に結衣のことを忘れさせるような存在になることが暗示されている。
■ 人魚と半魚人
ブイヤベースを食べている時に餃子の話をされると、餃子を食べている気分になる。別府もそんな状態だったのかもしれない。結衣がいるのに真紀を運命の人だと思い込み過ぎた。最初に真紀の『アヴェマリア』を聴いて心を奪われ、度重なる偶然で真紀を見かけることで、別府は真紀をすっかり運命の人だと思い込んだ。そんな真っ直ぐでブレない気持ちは、学生のときからずっと同じ「みかんつぶつぶジュース」を飲んでいることで表現されている。この強い思い込みのため、自分の結衣への気持ちに気付かなかった男の悲劇であると思う。
『人魚対半魚人』という映画が出てきた。どちらも半分魚、半分人間だが見た目は大きく違う。人魚=九条結衣、半魚人=別府、と考えると、結衣の気持ちは半分は別府、半分は婚約者、ということになる。別府の場合、半分は真紀、もう半分は結衣、ということになる。人魚は上下できれいに人と魚に分かれているが、半魚人は入り交じった姿をしている。外見からは気持ちがどちらを向いているか分らないということだろう。人魚である結衣は歌っているのだから、ここにも意味があると考えてみよう。
人魚伝説はいくつかあるが、だいたいは人魚の歌声に魅せられた者は水の中に沈められるパターンのようだ。ヴァイオリンを弾く真紀に心を奪われる別府の姿は、人魚の歌声のとりこにされた男のようでもある。そして自分のすぐ隣で歌う人魚(結衣)には気付けなかった。本来人魚の歌声に魅了される筈が、真紀のヴァイオリンの音色で沈んでしまった感じだ。別府は真紀に告白を拒絶され、はじめて結衣への気持ちに気付くが、結衣は結婚を取り消す気はない。すでに唐揚げにレモンはかけられていたのだ。二人が夜明け直前ぐらいベランダで最後にラーメンを食べたとき、結衣はこれが私たちのクライマックスだと言った。結局二人には夜明けは訪れなかったのだ。
■ フライドポテトと宇宙人
別府は「メガ盛り」を頼むほど、フライドポテトが好きだったはずだ。ジェンガのように積み上げられたポテトは、別府の真紀への思いだったのかもしれない。別府が告白した後、「捨てられた女ナメるな!」でポテトタワーは倒れる。結衣の結婚式の後のカラオケでは、ポテトには手をつけずに『紅』を歌う。真紀への思いが終わったのだと感じさせる。
別府の宇宙人コスプレも笑いのためだけでなく、文字どおり真紀にとって別府はエイリアン(未知の人)だったということだ。例え別府が何度も真紀を見かけても、声すらかけなかったのだから。しかし、一緒にカルテットを始めて、もはや別府は真紀にとってエイリアンではない。別府は真紀が最初の出会いを覚えておいてくれたことを、せめてもの救いにするしかない。
2017年1月18日水曜日
『カルテット』第1話
作品を選んでドラマに出る人が少ない中、このメインキャスト4人は作品を選んで集まった感が強い。坂元裕二の脚本だからだろう。第一話を観てみたら、期待通り、いやそれ以上だった。だから勢いでメモを兼ねてレビュー的なものを書いてしまおうと思う。
■ 演技が堪能できる
ドラマを観ていると、演者達の演技をひたすら観ていたいと思うことが時々ある。もう脚本は彼らが演技するための口実に成り果ててもいい、ずっと観ていたいと。『カルテット』でもそんな感覚が味わえそうだ。松たか子、満島ひかり、松田龍平、高橋一生。この4人の演技を今更どうこう言う必要はないだろう。確かに楽器を弾くときははまだ覚束ない感じだが、時間が経てばそこそこ見られる位までは持っていってくれると思う。満島の演技のこととか書きたいところだが、今後のネタバレ要素を含んでいそうなので、今は止めておく。間違いなく4人の演技バトルがこのドラマの見所のひとつだろう。
脇役にも期待できると思う。『ゆとりですがなにか』で存在感を見せた吉岡里帆。出番は少なかったが、闇を抱えてそうな印象を上手く残したと思う。八木亜希子は『あまちゃん』のときも素晴らしかったが、今回も役にはまれば期待できそうだ。
■ 唐揚げとレモン
巻真紀(松たか子)が話の中心になっている。そこらにあるキラキラネームよりもよっぽどタチが悪い名前なので、途中まで真紀の結婚自体が妄想なのではないかと疑っていた(笑)が、どうやら結婚はしていたらしい。最初真紀の声は聞き取れないくらいのピアニッシモ状態だったが、だんだん大きくなり、最後の方の「A(アー)下さい!」ではフォルテくらいにはなっていた。単に人見知りがだんだん他の3人に慣れてきたことを表すのか、それとも他に意味があるのか...
世吹すずめ(満島ひかり)は真紀の義母(もたいまさこ)から依頼される形で真紀に近づく。家森諭高(高橋一生)と別府司(松田龍平)は、どうやら自発的に接触を試みたようだが、まだ断定できない。都合よくカルテットが組めるようになっていたのは、誰かが意図的にそう仕向けた可能性もあるからだ。
セリフの掛け合いでダダーと進んでいくところが坂元裕二の持ち味の一つなのだろうが、人によっては鼻につくかもしれない。唐揚げにレモンかける、かけない、の話も新鮮味があるわけではない。ただ話の内容よりも、家森がウザいくらいのコダワリくんであるとか、レモン勝手にかけちゃう派(別府、すずめ)、かけない派(家森、真紀)というキャラであることは、今後につながってくると思う。「レモンをかけた唐揚げは不可逆」とも言ってるので、4人はもう後戻りできない状態にある、ということかもしれない。
■ あしたのジョー
4人はもはや音楽の夢を追っていい年ではない。夢を実現させるなら、今が最後のチャンス、といったところか。その夢の成れの果てのような形で出てきたのがベンジャミン瀧田(イッセー尾形)。高橋と尾形がイッセーつながりなのは偶然なんだろうね(笑)。真紀は瀧田を強引に追いやる形で自分たちのカルテットを後釜にすえる。自分が嘘をついているのに他人の嘘は許さない、というよりも、音楽の道を進むしか無いという決意の表れか。「愛しているけど好きじゃない」と言った夫への未練を断ち切りたいという思いもあるのだろう。真紀自身「夫婦は別れられる家族」と言っている。
あしたのジョーは最後に白く燃え尽きる。瀧田も再登場してそういう姿を見せるのかも知れない。
■ ドーナツの穴
「何かが欠けてる奴が奏でるから音楽になる」という瀧田の言葉に触発されたのか、別府は急遽カルテットの名前を「ドーナツ ホール」に変えてしまう。おそらく4人は欠落をかかえており、それが何かは徐々に明かされていくことになるのだろう。真紀の場合、それは夫のようであったが。
■ ティッシュと天気
真紀とすずめが家森のティッシュ(紫式部!)を使うくだりも、何か意味ありげ。ティッシュは一つ取り出せば次がでてくる。数珠つなぎのように何かが出てくる前フリか。二人とも天気は曇りが好きだと言う。おそらく今後対峙することになりそうな二人だが、もしも違う出会い方をしていたらいい友達になれたかも、ということなのか?
■ 散りばめられたヒント
初回からこんなにヒントを出していいの?というくらい、あちこちに散りばめられている。4人はそれぞれ嘘をつき、片思いだという。真紀の嘘は夫婦関係だった(実際には夫は一年前に失踪)。別府の嘘は同僚の彼女がいるのに、どうやら真紀に気があるらしいこと(ひねりが無ければ)。この辺は表面にはっきり出ているところ。他にも何故すずめに声がかかったのかも何となく想像できる(ヒントは靴下、というより平熱の高さ)し、家森の嘘もだいたい見当がつく。家森の場合、あるフラグがバンバン立っているので、真相が分かったとき、高橋一生ファンから悲鳴が上がるかもしれない。その前に『池袋ウエストゲートパーク』の電波くんでも見て、悲鳴の練習をしておいた方がいいかも(笑)。
4人はそれぞれの思惑を持ちながら軽井沢の別荘で共同生活する。嘘がバレていくにつれ、サスペンス感が高まっていきそうだ。中盤あたりで4人の秘密が全て明らかになる山場がくる構成なのかもしれない。で、さらにその先に何かがある、みたいな。坂元裕二の場合、終盤ガタつく不安があるので、今回はちゃんと最後までプロット練っておいてくれることを祈っている。
2017年1月11日水曜日
朝ドラ『べっぴんさん』の作られ方 (3)
キアリスの製品が上質なものであるという説得力を出すためには、すみれ達がそれなりに裁縫などの技術や知識を身に着けたことを映像として見せることが不可欠だと思った。例えば、女学校時代に裁縫学校の先生もやっているような人が手芸クラブの顧問になり、基礎的なことをすみれ達にみっちり教え込む、とか。キアリスが開業してからも、さらに自分達の技術を磨くような描写があればいいのに、とも思った。しかし、そういう描写は一切無かった。さすがにすみれが刺繍を始めたときは練習している様子はあったが、その程度だ。だから手芸クラブの延長みたいなキアリスの製品が評価され、どんどん売れていく様子が描かれても、視聴者にはモヤモヤ感がどうしても残る。
すみれ達が努力している姿を出来るだけ見せないようにしているのは、意図的なものだと思う。『少年ジャンプ』的主人公に努力は不要なのだ。主人公には無条件に好意、幸運が与えられ、物事は努力しなくても、結局上手くいくのだ。子供の全能感、地球は自分を中心に回っているような感覚、を浴びることができるのだろう。
すみれや紀夫達は昭和25年くらいで20代くらいの設定だが、あえて中身は十代にも感じられるような作りにしているのだと思う。すみれが相変わらずすぐに泣いたり、紀夫がグズグズしていたり、衝動的な行動(すみれをひっぱたく、とか)を取るのも子供の部分を感じさせるのが狙いではないかと思う。だからキアリスが会社組織になっても、手芸クラブの延長のような雰囲気を漂わせているのは狙い通りということになる。
簡単に言えば『べっぴんさん』は子供向けの作りになっている。大人から見れば破綻した話でも、子供の目線からは成立する。子供は知らないものはそういうものとして一旦飲み込む。フィクションを読み解くスキルも発達していないので、不整合があっても気付かない。すみれ、君枝、良子にあまり個性を持たせないことで感情移入しやすくしている。キャラ同士の摩擦が徐々に高まりやがて発火する、みたいな時間がかかることはせず、いきなり火を付け、近くのバケツで消化、みたいなお手軽なことを繰り返しているのも、尺が30分のアニメに合わせたような構成だ(だいたい2回分で問題が起こり解決してしまう)。ただし、ここで書いた子供とは必ずしも本当の子供ではない。
NHK、というよりも今のテレビの一番の課題は、若者をテレビにどうつなぎとめるか、または取り込むか、ということだろう。スマホやPCよりテレビは優先度が低い時代だ。特に受信料を取るNHKにとっては重大な懸念材料であることは間違いないと思う。『べっぴんさん』の最大の狙いは、朝ドラという知名度の高い枠で視聴者の年齢層をできるだけ下げることにあると思う。さすがに十代は難しそうなので二十代くらいを狙っているのではないか。そのためにはドラマを子供向けレベルまで落とす必要があったのだと思う。そこまでしないとついて来てくれない。それが現状。
ドラマの途中が飛び飛びになっているのは、すみれという女性を丹念に描く気が最初からないからだ(かと言って、群像劇と呼べる程のものにはなっていない)。戦争描写から逃げる意味もあったのだろうが、普通は女学校時代のエピソードを積み重ね、より効果的に終戦を迎えた方がドラマとしては正解の気がする。このドラマはすみれの成長物語というよりも、そう見えなくもないくらいの線を狙っているのだと思う。
もちろん従来の朝ドラ視聴者を切り捨てることは出来ないので、戦中、戦後といった時代背景や、麻田や五十八などのキャラを用意し、それなりのエピソードも作っている。子育ての悩みとか旦那あるある、みたいのものも次々と提示されている。よさげな映像や音楽は、雰囲気で誤魔化そうという姑息さを感じるが。
ここまで書いたことはドラマの前半(昭和20年台まで)までのことで、後半からは少し変えて来る気がしている。すみれ達も30代になり、さすがに中身は少年少女というのはキツいので、親らしくなるとは思う。さくら達が十代になるので、今まですみれ達が引き受けていた視聴者層はさくら達が引き継げばいい訳だ。これで朝ドラの通常営業ぽくなるのかも知れない。話が相変わらずご都合主義なのも通常モードの朝ドラなのだろう。
すみれ達が努力している姿を出来るだけ見せないようにしているのは、意図的なものだと思う。『少年ジャンプ』的主人公に努力は不要なのだ。主人公には無条件に好意、幸運が与えられ、物事は努力しなくても、結局上手くいくのだ。子供の全能感、地球は自分を中心に回っているような感覚、を浴びることができるのだろう。
すみれや紀夫達は昭和25年くらいで20代くらいの設定だが、あえて中身は十代にも感じられるような作りにしているのだと思う。すみれが相変わらずすぐに泣いたり、紀夫がグズグズしていたり、衝動的な行動(すみれをひっぱたく、とか)を取るのも子供の部分を感じさせるのが狙いではないかと思う。だからキアリスが会社組織になっても、手芸クラブの延長のような雰囲気を漂わせているのは狙い通りということになる。
簡単に言えば『べっぴんさん』は子供向けの作りになっている。大人から見れば破綻した話でも、子供の目線からは成立する。子供は知らないものはそういうものとして一旦飲み込む。フィクションを読み解くスキルも発達していないので、不整合があっても気付かない。すみれ、君枝、良子にあまり個性を持たせないことで感情移入しやすくしている。キャラ同士の摩擦が徐々に高まりやがて発火する、みたいな時間がかかることはせず、いきなり火を付け、近くのバケツで消化、みたいなお手軽なことを繰り返しているのも、尺が30分のアニメに合わせたような構成だ(だいたい2回分で問題が起こり解決してしまう)。ただし、ここで書いた子供とは必ずしも本当の子供ではない。
NHK、というよりも今のテレビの一番の課題は、若者をテレビにどうつなぎとめるか、または取り込むか、ということだろう。スマホやPCよりテレビは優先度が低い時代だ。特に受信料を取るNHKにとっては重大な懸念材料であることは間違いないと思う。『べっぴんさん』の最大の狙いは、朝ドラという知名度の高い枠で視聴者の年齢層をできるだけ下げることにあると思う。さすがに十代は難しそうなので二十代くらいを狙っているのではないか。そのためにはドラマを子供向けレベルまで落とす必要があったのだと思う。そこまでしないとついて来てくれない。それが現状。
ドラマの途中が飛び飛びになっているのは、すみれという女性を丹念に描く気が最初からないからだ(かと言って、群像劇と呼べる程のものにはなっていない)。戦争描写から逃げる意味もあったのだろうが、普通は女学校時代のエピソードを積み重ね、より効果的に終戦を迎えた方がドラマとしては正解の気がする。このドラマはすみれの成長物語というよりも、そう見えなくもないくらいの線を狙っているのだと思う。
もちろん従来の朝ドラ視聴者を切り捨てることは出来ないので、戦中、戦後といった時代背景や、麻田や五十八などのキャラを用意し、それなりのエピソードも作っている。子育ての悩みとか旦那あるある、みたいのものも次々と提示されている。よさげな映像や音楽は、雰囲気で誤魔化そうという姑息さを感じるが。
ここまで書いたことはドラマの前半(昭和20年台まで)までのことで、後半からは少し変えて来る気がしている。すみれ達も30代になり、さすがに中身は少年少女というのはキツいので、親らしくなるとは思う。さくら達が十代になるので、今まですみれ達が引き受けていた視聴者層はさくら達が引き継げばいい訳だ。これで朝ドラの通常営業ぽくなるのかも知れない。話が相変わらずご都合主義なのも通常モードの朝ドラなのだろう。
2017年1月10日火曜日
ズレズレ『べっぴんさん』
このドラマは本来やるべきことからずれていることが多い。今日の回(81)もそうだ。麻田がもう靴を作れる体ではないと、さくらの靴を作って欲しいというすみれの依頼を断るのだが、二人がかりで考え直して欲しいと懇願する。麻田最後の作品をさくらに、そしてドラマの最初の方ですみれが麻田の作業を覗いていたことや、ものづくりとは何かということを教えてくれたのが麻田だということを視聴者に思い出させることで、第一部の終わり(?)に持っていこう、というのが脚本の狙いだろう。だが、こうすると麻田が文字通り老体に鞭打って靴を作らされているようにしか見えない。
本当は麻田自身に最後の靴はさくらのために作る、作りたい、と言わせるべきだった。麻田は子供も弟子もいない設定らしい。ならば、さくらの顔を見て、かつてすみれが自分の作業を熱心に覗いていたことを思い出し、それが今につながっているのではと思わせる。そして自分に何が残せるか考えたとき、最後の力を振り絞って、さくらのために本物の靴を作る決心をする、で良かったのではないか?そうすれば最後の靴作りは引退の儀式的なものとなる。予め最後だということが分かっているからこそ、すみれやさくらばかりか君枝や良子とその子供たちが見守る、という演出も成立するのだと思う。
麻田の言う「本物」と玉井の偽物を対比するのは良かったが、前に玉井が出てきてから時間が経ち過ぎているので、今まで何やってたんかーい、とツッコミたくなるし、最後のオチもグダグダしていて全然スッキリしない。
こういう芯を食ってないというか、ズレた話は他にもいくらでもある。例えば、ゆりは妊娠したことを潔に言い出せずにいた。これも言う言わないの話ではなく、ゆりが子供ができたことで家庭に入りたい気持ちが湧いてきたことに戸惑い、何をどのように選択したかを中心に描くべきだった。
紀夫がキアリスに加わったときもそうだ。紀夫は会社になったのだから今までのような名前の呼び方は止めようと提案した。こんなものはサラッと流して、本当は紀夫自身に食器5千個の注文を決断させることで、彼がすみれを全面的に信頼し、仕事上のパートナーとしてもやっていけることを示すべきだった。結局呼び方を戻すことや食器の注文を追認することで紀夫がすみれ達のやり方を認めた形にしているが、脚本家が紀夫のキャラで食器5千個発注にまで持って行く力がなかったように思える。紀夫もまたポンコツキャラである。問題を起こすのには便利な設定だが、キャラを作った脚本家自身が持て余しているように感じられることが多い。
本当は麻田自身に最後の靴はさくらのために作る、作りたい、と言わせるべきだった。麻田は子供も弟子もいない設定らしい。ならば、さくらの顔を見て、かつてすみれが自分の作業を熱心に覗いていたことを思い出し、それが今につながっているのではと思わせる。そして自分に何が残せるか考えたとき、最後の力を振り絞って、さくらのために本物の靴を作る決心をする、で良かったのではないか?そうすれば最後の靴作りは引退の儀式的なものとなる。予め最後だということが分かっているからこそ、すみれやさくらばかりか君枝や良子とその子供たちが見守る、という演出も成立するのだと思う。
麻田の言う「本物」と玉井の偽物を対比するのは良かったが、前に玉井が出てきてから時間が経ち過ぎているので、今まで何やってたんかーい、とツッコミたくなるし、最後のオチもグダグダしていて全然スッキリしない。
こういう芯を食ってないというか、ズレた話は他にもいくらでもある。例えば、ゆりは妊娠したことを潔に言い出せずにいた。これも言う言わないの話ではなく、ゆりが子供ができたことで家庭に入りたい気持ちが湧いてきたことに戸惑い、何をどのように選択したかを中心に描くべきだった。
紀夫がキアリスに加わったときもそうだ。紀夫は会社になったのだから今までのような名前の呼び方は止めようと提案した。こんなものはサラッと流して、本当は紀夫自身に食器5千個の注文を決断させることで、彼がすみれを全面的に信頼し、仕事上のパートナーとしてもやっていけることを示すべきだった。結局呼び方を戻すことや食器の注文を追認することで紀夫がすみれ達のやり方を認めた形にしているが、脚本家が紀夫のキャラで食器5千個発注にまで持って行く力がなかったように思える。紀夫もまたポンコツキャラである。問題を起こすのには便利な設定だが、キャラを作った脚本家自身が持て余しているように感じられることが多い。
朝ドラ『べっぴんさん』の作られ方 (2)
終戦直後、麻田はすみれが金に困っていることを知り、店の一部を貸してくれた。そのきっかけになった写真入れは、ベテランの職人である麻田の心を動かす程の出来には見えなかった。単なる同情だったのだろうか?普通、麻田は子供か弟子を戦争でなくし、その代わりとしてすみれに肩入れにすることになった、とか動機付けを補強しそうなものだが、そんなことは一切やらなかった。色々と考えてしまったが無駄なことだった。好意や幸運はすみれめがけて勝手にやってくるのだ。
紀夫が復員して来るまでの間、すみれの番犬のような役をしたのは栄輔。すみれに惚れたという設定だった。栄輔なら他の女にいきそうなものだが、まあ、好きになるのに理由はいらないので、これでもいいのだろう。だが、あくまで番犬扱いであるから、男として全く見られていなかった。だから喜代もすみれも栄輔を家に泊めることに何ら躊躇はなかったのだ。紀夫が戻って来た時点でお役御免となり、栄輔は誰にも何も告げずに去ることになる。結局、すみれにとって都合のいい番犬でしかなかった。
キアリスの大急出店もまた勝手に転がりこんできた幸運。すみれ達はボーとしていてガツガツと金を稼ぐようなキャラでないことが、渡りに船みたいに見えるのを多少減殺しているのかもしれない。社長夫人がキアリスの商品を気に入ったおかげで社長の独断で大急への出店が決まったようだが、これも都合のいい話。さらに話が進むにつれ大急社長はポンコツにされていく。小山程度の社員しか持てず、ゆり如きに言い負かされるのだから、なかなかのダメ社長だ。このドラマは話が進むにつれ、誰かがポンコツにされていく。
このようにすみれにとって都合の良いことが次々に起きた。それは単にすみれだから、という以上の理由はない。これだけでも『少年ジャンプ』的主人公と共通しているのが分かるが、まだ他にもある。
紀夫が復員して来るまでの間、すみれの番犬のような役をしたのは栄輔。すみれに惚れたという設定だった。栄輔なら他の女にいきそうなものだが、まあ、好きになるのに理由はいらないので、これでもいいのだろう。だが、あくまで番犬扱いであるから、男として全く見られていなかった。だから喜代もすみれも栄輔を家に泊めることに何ら躊躇はなかったのだ。紀夫が戻って来た時点でお役御免となり、栄輔は誰にも何も告げずに去ることになる。結局、すみれにとって都合のいい番犬でしかなかった。
キアリスの大急出店もまた勝手に転がりこんできた幸運。すみれ達はボーとしていてガツガツと金を稼ぐようなキャラでないことが、渡りに船みたいに見えるのを多少減殺しているのかもしれない。社長夫人がキアリスの商品を気に入ったおかげで社長の独断で大急への出店が決まったようだが、これも都合のいい話。さらに話が進むにつれ大急社長はポンコツにされていく。小山程度の社員しか持てず、ゆり如きに言い負かされるのだから、なかなかのダメ社長だ。このドラマは話が進むにつれ、誰かがポンコツにされていく。
このようにすみれにとって都合の良いことが次々に起きた。それは単にすみれだから、という以上の理由はない。これだけでも『少年ジャンプ』的主人公と共通しているのが分かるが、まだ他にもある。
2017年1月9日月曜日
朝ドラ『べっぴんさん』の作られ方 (1)
久しぶりに朝ドラを観てみようと思ったのは、主人公がよくあるグイグイ系でベタベタな演技で押し通してくるタイプではなく、他のものより見易そうだったから。なお、自分は『あまちゃん』は朝ドラとは別物として扱っているので、ここで「朝ドラ」という言葉が出てきたら、『あまちゃん』は含まれないと思って頂きたい。
『べっぴんさん』で最初に思ったのは、お嬢様という名のポンコツさん達が、まわりの助けを借りながらキアリスという会社を大きくしていく話なんだろうな、ということ。ただ朝ドラは基本ホームドラマであり、仕事の描写はかなり雑なものになるであろうことは分かっていた。だが、それ以前に余りにもご都合主義が激しく、すみれ達メインのキャラも煮え切らないというか、女学校時代と大して変わらないことに苛立った。話もハネることなく、何か問題が起きても誰かの助言で簡単に解決、というパターンの繰り返し。これでは内容に興味を持てるはずがない。どうせ都合よくキアリスは拡大していくのだ。今後どうなるか?といった展開を待つ楽しみもない。興味は次第になぜこんな稚拙なドラマをわざわざ作っているのか?という点に移っていった。
このドラマを観ていくうちに、すみれ達にあえてあまり個性を与えず、子供っぽい印象を与えるようにしているのではないかと思うようになった。『少年ジャンプ』などの主人公はできるだけ特徴を付けないようにしているらしい。その方が、まだ何物でもない、自我の固まっていない子供には自分を主人公に投影させ易いのだそうだ。しかし、無個性だけでは子供の興味は惹けない。そこで何かの天才だったり、神から選ばれし者的な特別な存在として描かれる。主人公は特に努力してなくも、都合よく助けられたり、持って生まれた才能で道を切り開いていく。『べっぴんさん』のすみれは、まさにこのタイプの主人公として設定されているのではないか。
すみれが9歳のとき、町にある「あさや」に行きたいと言い出すと、都合よく潔が同行してくれた。そして潔はなぜかすみれのことを、とてもよく理解していた。これがすみれにだけ都合の良いことになっていたことは、後に分かる。潔はすみれに気があった訳でもなく、ゆりや紀夫をよく理解していた訳でもなかった。なぜか子供のときはすみれだけ特別に理解していたのだった。
『べっぴんさん』で最初に思ったのは、お嬢様という名のポンコツさん達が、まわりの助けを借りながらキアリスという会社を大きくしていく話なんだろうな、ということ。ただ朝ドラは基本ホームドラマであり、仕事の描写はかなり雑なものになるであろうことは分かっていた。だが、それ以前に余りにもご都合主義が激しく、すみれ達メインのキャラも煮え切らないというか、女学校時代と大して変わらないことに苛立った。話もハネることなく、何か問題が起きても誰かの助言で簡単に解決、というパターンの繰り返し。これでは内容に興味を持てるはずがない。どうせ都合よくキアリスは拡大していくのだ。今後どうなるか?といった展開を待つ楽しみもない。興味は次第になぜこんな稚拙なドラマをわざわざ作っているのか?という点に移っていった。
このドラマを観ていくうちに、すみれ達にあえてあまり個性を与えず、子供っぽい印象を与えるようにしているのではないかと思うようになった。『少年ジャンプ』などの主人公はできるだけ特徴を付けないようにしているらしい。その方が、まだ何物でもない、自我の固まっていない子供には自分を主人公に投影させ易いのだそうだ。しかし、無個性だけでは子供の興味は惹けない。そこで何かの天才だったり、神から選ばれし者的な特別な存在として描かれる。主人公は特に努力してなくも、都合よく助けられたり、持って生まれた才能で道を切り開いていく。『べっぴんさん』のすみれは、まさにこのタイプの主人公として設定されているのではないか。
すみれが9歳のとき、町にある「あさや」に行きたいと言い出すと、都合よく潔が同行してくれた。そして潔はなぜかすみれのことを、とてもよく理解していた。これがすみれにだけ都合の良いことになっていたことは、後に分かる。潔はすみれに気があった訳でもなく、ゆりや紀夫をよく理解していた訳でもなかった。なぜか子供のときはすみれだけ特別に理解していたのだった。
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