2018年4月1日日曜日

ドラマ『anone』 ーさよなら、私

『anone』というドラマでは、「もうひとりの誰か」が実に多く出てくる。亜乃音にとってハリカはもうひとりの怜であり、中世古にとって陽人はもうひとりの弟であった。そして本作で最も重要なのが「もうひとりの自分」である。「本物とニセモノ」を主題としたこのドラマでは、「もうひとりの誰か」は「ニセモノ」という言い方もできるだろう。今回は「もうひとりの自分」に焦点を当ててみたいと思う。

■ アオバとるい子


アオバ(蒔田彩珠)には『あまちゃん』の「若春子」へのオマージュを感じるが、その役割は異なっている。若春子はアキにだけ見える幻影だったが、それはアキがかつての春子と同じ状況に達した(芸能界への道を閉ざされる)サインであり、アキが劇中の役割(誰かの深く沈めた思いを浮上させて決着をつけさせる。「海女さん」はこの役割の象徴でもあった)に無自覚であったので、その役割を果たすための導き手でもあった。

アオバ自身の言葉によれば、彼女はるい子(小林聡美)にとって、生まれてこなかった娘であり、友人であり、分身である。「幽霊というのとは少し違う」と言っている通り、アオバはるい子が辛い人生を生きていくために作り出した幻影だが、死も背負っている。るい子が高校生だったときの制服を着ているのは、何もかも思い通りにならないことが始まった転換点であり、子供であることの象徴だ。

アオバが手鏡越しにるい子を見る、という演出が何度か出てくる。アオバはるい子の鏡像であることを確認しているのだが、後にハリカが鏡越しに怜を見る、という演出に繋がっているようだ。二人は鼻を撫でる仕草を共有している。人はよく誰かに自分のことか確認するとき、自分の指を鼻に向ける仕草をするが、これに似た動作でもある。鼻は自分自身を表していて、やはりアオバはるい子自身であること示しているように思う。

るい子は離婚と生き続けることを決めた後、アオバとゆっくりと手を合わせる。アオバは「わたし、いい子?」と訊くが、それはるい子自身が母親に確認したかったことだろう。るい子は母親の立場からアオバはいい子であり、好きだと肯定する。るい子がアオバを見たのは、おそらくこれが最後だ。

■ ハリカと彦星


ハリカと彦星もお互いに「もうひとりの自分」である。二人とも子供の頃に親に捨てられたも同然の境遇になり、「地球も流れ星になればいいのに」と思うほど絶望している。ハリカの長い前髪、青の多い服装は彦星のコピーのようでもあった。子供の頃の二人は施設を抜け出すが、ある意味二人の心はずっとどこかから抜け出した状態のまま、着地する場所を見出せずにいたようでもある。まだ世界が自分のためにあると思っていたような子供時代に、その世界から拒絶されたような二人は、お互い相手に自己を延長しあい、この世界にいるのは実質二人だけになる。「地球も流れ星になればいいのに」という言葉には、その他大勢の人はどうでもよい存在か、そもそも欠落しているように思える。余談だが、この「その他大勢の存在が抜け落ちている」のは大ヒット映画『君の名は。』でもある。だからダメな作品なのだが、このドラマの裏側でそれへの批判を意図していたのだとしたら、なかなか巧妙だ。流れ星、二人だけの世界。この映画につながる。

彦星を生かすことは、ハリカ自身が生きる意味にもなっていた。純粋だった二人は、お互いのために汚れる。ハリカは偽札作りという犯罪に手を染め、彦星は香澄の提案を受け入れ、高額な費用がかかる最先端の治療を受けることにする。それは少し大人になった、ということであるが、この世の中は「二人だけの世界」ではないことを認めることでもある。両方とも誰かの手を借りずにはなしえないことだから。更にそれは生きていくために必要なのは「もうひとりの自分」ではなく、別の誰かであると気付くことでもある。アオバとるい子がそうしたように、二人も最後に手を合わせる。

同じ手を合わせるという行為でも、それぞれの意味合いが違って見える。アオバとるい子の場合、触れることで分裂していた自己がひとつに戻ったような感じがする。ハリカと彦星の場合は、お互いが自己の延長のような存在ではなく、別々の存在であることを確め合ったように思えるのである。

■ 『転校生』と『カルテット』


大林宣彦監督の『転校生』は、「もうひとりの自分との出会いと別れ」の話である。この映画に出演していた小林聡美の配役は、その演技力だけでも十分な理由になるが、メタ的な意味も込められていたように思う。「さよなら、私」は、この映画で小林演じる一美の最後のセリフである。このドラマの作り手は、『転校生』から長い年月を経て、小林に別の形で「もうひとりの私」に別れを告げる役をやって欲しかったように思う。

「もうひとりの自分」は坂元裕二の前作『カルテット』から引き継がれたものでもある。真紀とすずめは互いに「もうひとりの自分」だった。二人とも奏者であり、母親を亡くし、父親には苦しめられ、名前を変えた過去を持つ。『カルテット』では、もうひとりの自分と出会い、共に暮らすところで終わっていたが、『anone』では一歩進めて別れまでを描いた。

ハリカとるい子は誰にも頼れず、もうひとりの自分を見出し、それを支えに生きていくしかなかったが、偽札がきっかけで亜乃音たちに出会い、疑似家族になることで変わった。るい子は生まれてこなかった娘ではなく、自分の中で生き続ける持本舵手に入れる。ハリカは最大の願い、彦星が生き続けること、は叶った。しかし、それとの引き換えのように「もうひとりの自分」と決別することになる。それは「それまでの自分」を肯定し、受け入れることで前へ進んでいく、ということでもあった。