2017年2月18日土曜日

『カルテット』 第5話

■ 粗過ぎるあらすじ


音楽プロデューサー朝木(浅野和之)がおだてているのは分かっていながらも、ドーナツ・ホールはクラシック音楽のライブに参加することを決める。しかし意に沿わぬことをやらされ、結局一度だけでやめてしまう。すずめは真紀を探るのをやめることにするが、代わりに来杉有朱がその役を引き受けたことを知る。

■ 人の表と裏


人は必要に迫られ、表や裏の顔を使い分けるようになっていくものだ。それは自分を守るためのものであり、他人と何とかやっていくための手段であもる。今回は登場人物たちの表と裏の顔が次々と提示されていく。

巻鏡子は真紀の顔を見ると豹変し、気のいい義母を装って真紀と接する。二人はいつもこんな感じだったのだろうが、真紀を疑っている気持ちは完全には隠しきれず、別府が一緒にいることが分かると、寝室をチェックしたりする。鏡子が背中を向けて真紀のマッサージを受ける姿は象徴的だ。真紀に対しては正面を見せず、ずっと背中を向けてきたのだろう。

別府の弟である圭(森岡龍)は表の顔は出てこなかったが、別府が自分以外の家族はみんなすごいと言っていたので、音楽業界でそれなりの人なだろう。どうやら別荘を処分したいらしいが、体裁を考え、家森たちに仕事を世話して出ていってもらおうというハラらしい。実際朝木を使って仕事を用意している。別荘処分の話は今後の伏線になるのだろう。

朝木は「我々三流は楽しめばいい」と真紀達ドーナッツ・ホールの面々に言う。要は「お前らも所詮3流。つけあがるな」ということだ。最初に褒め殺しのようなことを言ったときの仮面を取っているかに見えるが、ライブが終わって真紀達が去った後、「志のある3流は4流」と言い、ここで始めて本当の顔を覗かせる。

有朱もまた真紀の前で本性を見せる。土足で真紀の心の中にズカズカと踏み込んで来た彼女が言いたいことは、要は夫婦でも表の顔と裏の顔を使い分ければいいじゃないか、ということになるだろう。有朱も地下アイドルから地上に上がれなかった人で、真紀たちと同じような立場であり、真紀と同じようにネガティブな思考だ。違うのは真紀が自分を否定的にとらえるのに対して、有朱は他人を否定的にとらえることだ。

有朱は裏表を上手く使い分けられないような大人がまだ夢を追っていること自体に苛立っているようにも見える。有朱もまだ大人になりきれてないから直球で勝負しているが、これは第1話で真紀を追求したすずめと似ている。すずめは偽りの微笑を浮かべ、自分を守るために嘘もついて来ただろう(だからとっさに「猫があぐらをかいてた」とか少しひねった嘘も言える)。地下アイドルだった有朱も同じようなことをしてきたとすると、二人には共通した部分があるということだ。真紀を責めているかのような有朱だったが、彼女もまた裏表を上手く使い分けられなかったから、学級崩壊させたりしたのではないか。自分と似ていると余計に腹が立つというのは、よくあることだ。

コスプレもまた別人格を装うという意味で、仮面と同じ機能を持つ。「愛死天ROO」のコスプレをし、エア演奏もやるが、結局一度だけで止めてしまう。ここからもドーナツ・ホールは、表と裏の顔、建前と本音を上手く使い分けられない人達の集まりだということが分かる。そんな彼らの着地点を描くのが、このドラマのゴールなのだろう。

■ すずめと真紀


「ノクターン」でドーナツ・ホールの面々が同時に言葉を発してしまうのは、それだけ息がピッタリ合ってきたということだろう。すずめは最初から真紀を裏切り続けているようなものだが、裏表の顔を使い分けられないメンバーの中にあっては、裏の顔を持ち続けてきたすずめはカルテット全体をも裏切っているようなものだ。疑惑から始まったすずめの真紀に対する気持ちは、完全に信頼へと変わった。しかし、そんな真紀をすずめは失うことになる。

有朱が執拗に真紀を追求した時、すずめは何とか遮ろうと言葉をぶつけてくる。だが「ノクターン」の時とは違って、有朱とは息が合わないのでタイミングはズレる。それでも懸命に邪魔をするが、結局核心である真紀の夫の失踪まで、有朱を辿り着かせてしまう。そして有朱が落としたレコーダーに録音された内容と、義母・鏡子が使っていたバッグの花がすずめに付着していたことから、真紀はすずめが義母から頼まれて自分を探っていたことに気付く。この時の松たか子の演技は、これだけでもこの回を観た甲斐があったと十分思わせるものだった。「ありガトーショコラ」から甘くほろ苦いショコラが消え、他人行儀な「ありがとう」に変わる。すずめにとっては「さようなら」と同じだ。

真紀がベンジャミン瀧田を追い出したのは、彼が嘘をつく苦痛や家族のもとへ戻る可能性を作るためかとも思ったのだが、真紀にとっての第一の理由は彼女の言葉通り、瀧田が嘘をついていること自体にあったようだ。真紀には嘘に対する拒絶反応みたいなものがあったらしく、それは他人に対してだけでなく、自分が嘘をつくことにも心理的抵抗があるようだ。第1話では今回の有朱と同じように、すずめが真紀を追求する場面があった。すずめは嘘をつくことに慣れていて、ロールケーキを持ち出したりして気を逸らそうとしたのに対し、すずめに追求された時の真紀は「A(アー)下さい」を繰り返すだけだった。これは真紀の不器用さというよりも、嘘をつきたくない為に同じことを言い続けるくらいしかできなかった、ということではないか。真紀がすずめが父親に会わないという選択を受け入れたのは、嘘偽りのない本当の気持ちだったからだろう。

前回真紀は家森の言葉をノドグロとか反対の意味に変える、という微妙な嘘をついていたが、今回のライブでのエア演奏は、完全な嘘である。それを真っ先に受け入れたのは真紀だった。真紀は自分を否定的にとらえているので、三流であることを認めるのは、そんなに難しいこととは思えない。それよりも嘘をつくことに同意する方が彼女にとっては困難だった筈だ。今回真紀はそれをやってみせた。そして嘘をつくのに慣れている筈のすずめが今度は拒否の姿勢を示す。もう嘘をつきたくないという気持ち傾いてきている。二人の気持ちが変化してきていることは、頭に入れておいた方が良さそうだ。

■ メタメタする


脚本の坂元裕二には、あまりメタ的なものを入れてくるイメージがなかったのだが、『カルテット』に関しては、かなりやっているように見える。第3話のときにも触れたが、『愛のむきだし』を意識してそうだった。今回はメタの王様的な宮藤官九郎が真紀の「夫さん」役として出てきたので、彼の作品に関係した『カルテット』の出演者をまとめてみよう。

『あまちゃん』組は松田龍平、八木亜希子、森岡龍。『ゆとりですがなにか』組は安藤サクラと吉岡里帆。他に松たか子は舞台『メタルマクベス』(『マクベス』の脚色)、満島ひかりは『ごめんね青春!』、高橋一生は『池袋ウエストゲートパーク』と『吾輩は主婦である』に出演している。

第2話では別府の眼鏡が割れたことよりも、九条結衣と別れさせることに、より強いメッセージを感じた。『あまちゃん』で松田龍平は足立結衣(ユイ)のマネージャー役だった。同じ名前の結衣と別れさせることで、『あまちゃん』でついたイメージをこのドラマで払拭してやる、という脚本家の意気込みを感じた。別府は九条結衣の部屋に泊まっても何も起こらなかったと言っていたので、九条結衣は天野アキも内包していると考えることもできる。

メタの部分を意識すると、満島ひかりが教会にいるだけで『ごめんね青春!』を思い出して面白いし、『ゆとりですがなにか』で教育実習生役をやっていた吉岡里帆が演じる有朱が学級崩壊させたくだりも、別の意味で面白くなる。どこまで意識してやっているかは分からないが、こういうのもドラマ、というかフィクションの楽しみ方のひとつであると思う。

■ ドラマの表と裏


前のブログで家森諭高というキャラの原型はハンプティー・ダンプティーではないかと書いた。これはルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』にも登場する。鏡の国でアリスは赤の王の夢の中の登場人物に過ぎないと言われる。『カルテット』ではクドカン作品に出演した俳優が数多く出演し、さらにクドカン本人も出てきた。脚本家が描いた世界を「夢」とするなら、夢を見ている人とその夢の中の人物が同じ世界にいるという点で鏡の国と同じだ。そして『あまちゃん』もまた、鏡の国のようでもある。北三陸編と震災までの東京編は対称的に作られていて、鏡の中の世界のようでもある。春子が夢見たアイドルの世界に、東京で娘のアキが入ったことを考えると、もっと鏡の国と近いものになる。

クドカンがよく使うメタ的なアプローチや、童話など他のものを下敷きにした作劇、笑いの裏にメッセージを仕込む、といったようなことを、このドラマはこれまでやって来た。そして今回、ドーナツ・ホールが意に沿わないライブをやることは、『あまちゃん』で他に選択肢がなく、太巻の言われるまま影武者をやってしまった天野春子のようでもある。ライブ本番で結局自分たちの演奏ができない姿は鈴鹿ひろ美だ。まるでドラマの裏側で着々とクドカンが登場する舞台を整えていたかのようだ。表側からは、クドカンはいかにも母や妻から逃げてしまいそうな男に見えて最適だが、裏側からもクドカンの配役は『カルテット』というドラマでは必然的、と言えるほどに強い結びつきがあるように思える。

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