2017年3月26日日曜日

『カルテット』 最終話



クラシック音楽だけでなく、日本の昔話やルイス・キャロルの童話などの要素を散りばめた、大人のおとぎ話とでも呼べそうな『カルテット』は最終回を迎えた。このドラマ自体がクラシックのようなものになって欲しいという願いも込められていたのかもしれない。本物だけが時間の流れに耐え、永く残ることができる。

■ 変わりゆくものと変わらぬ思い


人生、必ずしも望んでいた通りにはならない。「ノクターン」は割烹ダイニング「のくた庵」になった。マスターは優しさからか、本音なのか分からないが前から和食をやりたかったと言ってくれた。ただ、「のくた庵」の方が儲かっていそうではある。家森は理容師としてはアシスタント止まりで、今カットできるのは長過ぎる春雨(?)くらいになってしまった。すずめと家森が仕事にどっぷり浸かって音楽から気持ちが離れていく中、元々会社に居場所があったとは言えない別府は退職し、一人だけ同じ場所に留まり続けている。家森は誰かを巻き込んで寸劇を繰り広げるが、別府は一人芝居をするように真紀が残していったレコーダーに思いを記録しているところが何ともいじましい。

有朱は相変わらずという感じだ。普通なら、結婚します!という感じで左手の婚約指輪を見せるのだろうが、右手の高価な指輪の方を谷村夫婦に見せびらかす。結婚よりも金持ちになることを見せつけるところに危うさがある。

真紀は自からは軽井沢に戻ることができない。すずめ達が迎え入れてくれることは分かっていても、もはや自分の音楽を真正面から受け止めてくれる人はいないと考えている。真紀はすずめに自分のヴァイオリンを託していった。かつて半田が家森のヴィオラを奪い、それを返したときに元妻・茶馬子はあんたはそのままでいい、音楽を続ければいい、言ってくれた。今度はすずめ達が真紀にヴァイオリンを返す番になる。

真紀が幹生と逃げようとした時、すずめは母親についていこうとする子供のようだった。今度は逆にすずめが母親的で、久し振りに再会した真紀がやつれ、苦労して来たことを、何の会話もせずに気付く。多くのものが移り変わってゆく中で、すずめ達の真紀への思い、真紀の3人への思いは変わらなかった。


■ 4人と音楽


このドラマでは男だから、女だからという理由による役割分担がない。とてもフラットな関係性だ。最初から男二人が料理を作っていたし、4人で洗濯物を干しながらふざけ合ったりしていた。車の運転は真紀がいないときは別府、という感じだったが、運転には意味を持たせているように思う。

真紀はいつも大事な局面でカルテットの方向性を決めてきた。ベンジャミン瀧田を追い出した時や愛死天ROOでの弾きぶり、そして今回のコンサート開催。何としても4人で音楽ができる場を作りたい、という強い意志が読み取れる。真紀が運転することが多いのは、3人を伴って目的地へ導く役割であることを象徴しているように思う。カルテットにはオーケストラのような指揮者はいないし、バンドのようにリズムを刻んでくれるドラムもない。信頼できる核となるような人を中心に音楽を奏でるスタイルなのだと思う。

真紀が自分のことだけ考えるのなら、すずめ達3人よりも、もっと上手い人と組んだ方がいい。真紀だけが元プロ奏者なので、そう出来る確率は高いのだが、真紀はそうしなかった。初めからこの4人で何とか音楽活動ができるように努めていた。真紀だけが唯一プロの厳しさを知っている立場だから、ということだけではないだろう。さんざん苦しんだ過去を捨て、結婚したら今度は夫が失踪。やっと辿り着いた場所である。ここしかない、これを失ってはいけないという切実な思いがあったのだろう。

4人が最初に出会った頃の回想が描かれた。そのとき全員一致したのが「自分の気持を音にして飛ばす感覚」と、それが誰かに届いたと感じられるときの喜び。一度これを知ってしまうと、なかなか音楽をやめられなくなるのだろう。実際真紀の住む団地で演奏した時、彼らの音楽は真紀に届いたし、ショッピングモールでの演奏を楽しそう聴いていた中学生もコンサートに来てくれたのである。

ドーナツホール宛の匿名の手紙は「技術も才能も無く、煙突から出た煙のような存在なのに、なぜ音楽を続けるのか?」といったような文面だった。例えそうでも、彼らなりの音楽をやって、伝わる人に伝わればいいと4人は考えている。だから、演奏中に空き缶を投げつけられようと、途中で客が帰ってしまおうと、彼らはめげない。それが手紙への答えでもある。

コンサート会場に来ていたGのキャップを被る女性は手紙の送り主だと思わせる。5年前に止めた筈の楽器のケースを持っていたので、彼女もまた同類で、手紙に書いた問いへの答えを切実に求めていたのかもしれない。

ドーナツホールの4人は疑似家族みたいなものだ。別府と家森がファーストネームで呼び合うのもその表れ(ちょっと気持ち悪いけどねw)。さらに4人は音楽で結ばれた同志でもある。すずめ達が真紀のヴァイオリンを持って行ったとき、音楽を奏でて真紀を呼び寄せたが、ドーナツホールの再結成に言葉は必要なさそうだ。嘘から始まったカルテットはリセットされ、今度は嘘のない形で再スタートした。


■ 世間との対峙


『問題のあるレストラン』では、ちょっとしたことがきっかけでレストランは閉店に追い込まれてしまう。少しのミスも許さず、執拗に責任を追求する世間に潰されてしまった格好だ。『カルテット』でも手紙の送り主や週刊誌の根拠ない記事を通して世間が顔を出す。真紀とすずめは自分たちの過去を逆手にとってコンサートの客を集めることにする。『問題のあるレストラン』では主人公たちは為す術なくやられてしまったが、今度はちゃんと反攻する格好だ。

自分たちの過去を利用してコンサートを開くということは、色物のような存在になるということだ。かつて押し付けられた「愛死天ROO」を、今度は自ら望んでやるようなものだ。「志のある三流は四流」だと言われたが、3.5流くらいにはなれたのかも知れない。4人は世間から外れたような存在だが、孤立をよしとしている訳ではない。不器用な彼らは、音楽を通してしか自分たちを表現できず、それが自分を偽らずに世界と繋がことができる唯一の方法なのだと思う。

有朱がコンサートにやって来たのは、金持ちになったことを見せつける以上の意味があったと思う。有朱は自分とは全く違った価値観を持つ真紀に執拗に絡んでいたが、真紀たちが何を選択したかを彼女に見せることに意味があったのだと思う。有朱もまた世間の一部だ。


■ 乙女の死


真紀が義父を殺したかどうかは、いくら目を凝らして繰り返し観たところで、白黒つけられるような決定的証拠が出て来る訳ではない。結局真紀という人をどう見ているかにかかっているのだろうが、自分には真紀が義父を殺したとは思えない。

コンサートの1曲目は真紀が選んだシューベルトの『死と乙女』は、病気で死期が近づいた乙女は死を恐れるが、死は安息であるという救いを与える歌だと捉えられている。タイトルしか見ない人には真紀が義父を殺したと想像させるかもしれない。しかし、歌詞を見ると、死は直接乙女自身に向かっている。真紀が自殺まで考えたのかは分からないが、山本アキコという乙女を死なせることでしか安息を得られなかったのだろう。それは無垢であることの終わりでもある。

「乙女」から「早乙女」を連想する人もいるだろうが、脚本家のトラップのような気もする。タイトルしか見ないで判断する人は、「コロッケデート」の文字と写真だけで判断してしまうような人と何も変わらないよ、と言いたいのかも。


■ 花火とパセリ


ラストで4人は熱海の花火大会で演奏することになる。この季節に花火?と思ったが、まあよしとしよう。花火を打ち上げているのに誰が演奏聞くの?という話はどこかで観た気がすると思ったら、NHKで放送中の『火花』第1話だった。こちらは花火打ち上げてる間に誰が漫才聞くんかーい、という話だった。このドラマ、1シーン、1カットが長く、ダラーとした印象があるので、こちらもダラーとした感じで何となく見ていたのだが、『カルテット』との関連ではとりあえず見ておいて良かった。このドラマには茶馬子役で登場した高橋メアリージュンも出演している。今回、なぜ大橋絵茉という、茶馬子と関係ありそうな紛らわしい名前の人物が登場したのか疑問だった。もちろん、彼女は真紀とは対極的で、3人にはやっぱり真紀が必要、と思わせるためだが、大橋という名字でなくても良かったのではないか、と。狙いとしては茶馬子を思い出してもらい(半田と墨田の再登場も同じ目的だろう)、『火花』と関連付けて欲しかったのだと思う。

話を戻そう。ドーナツホールも芸人達も、花火大会ではパセリのような添え物扱いだ。花火のように華麗に輝く人もいれば、添え物で終わってしまう人もいる。それでもこのドラマは「サンキューパセリ」なのだ。そして花火だって後に残るのは「煙」だけなのである。

売りに出された別荘は、買い手がつかずに宙ぶらりんの状態。そして4人もまた宙ぶらりん状態だ。彼らは時に道に迷いながらも、「みぞみぞ」できる喜びを噛み締めながら進んでゆくのだろう。彼らなりのやり方で。


■ 『あまちゃん』フォロワーとしての『カルテット』


『あまちゃん』の鈴鹿ひろ美がどんな思いで女優人生を送って来たか、震災後歌う気になった動機などが詳しく語られることはなかった。意図的に空白部分を作り、視聴者に想像してもらう作りになっている。正解が用意されている訳ではないので、あれこれ考えても永久ループのようになる。その意味で『あまちゃん』は未完であり、終わらないドラマになったのだと思う。

この鈴鹿ひろ美の描き方を取り入れたのが『カルテット』の真紀だ。家森や別府の過去も詳しく描かれたとは言えないが、それは重要ではないから。真紀の義父殺害の疑惑については、明確な答えが用意されている訳ではない。こうすることで、『あまちゃん』同様、放送終了後も視聴者があれこれ想像することで、余韻を楽しめるようになっている。

最初に戻るような円環構造や隠れた笑い、鏡像関係なども『あまちゃん』で使われた手法を取り入れたのだろう。だいたいドーナツホールの立ち位置が、天野アキが選んだ「プロでもない、素人でもないアマちゃん(アマチュア)」と極めて近い。映画『Wの悲劇』の影響を明示するため、『あまちゃん』では薬師丸ひろ子が出演した。同様に『カルテット』では宮藤官九郎を出演させることで『あまちゃん』の影響を明示した。もちろん全てが『あまちゃん』では無く、他の作品の影響も感じられる。例えば松尾スズキ監督の『クワイエットルームにようこそ』でクドカンが演じた鉄雄というキャラは巻幹生によく似ている。また、『Wの悲劇』の原作(映画では原作が劇中劇として使われるという面白い構造になっている)は雪に囲まれた別荘が舞台だ。

『あまちゃん』はこうすればドラマは面白くなる、という方法をいくつも提示していた。『カルテット』はそれに応える形で作られたものでもあると思う。もっとこういうドラマが増えてくれれば嬉しいのだが。

2017年3月17日金曜日

『カルテット』 第9話



■ 炎上クイーンの退場

有朱は株で損したことを知ると、財産のある谷村大二郎に言い寄る。真紀のヴァイオリンを盗もうとしたときのように、この人は短絡的な行動を取る。谷村にはあっさり跳ね除けられ、おまけに彼の妻にその様子を見られてしまい、「ノクターン」をクビになる。炎上クイーンはケーキも燃やす(笑)。店を辞めて出ていくときも、有朱には全く悪びれた様子はない。女王様のように堂々と去って行く。

ベンジャミン瀧田の時と同様に、有朱も金を貰って出て行くが、両者の態度は対照的だ。瀧田は金の入った封筒の中をチラッと見るだけ。有朱は札を引っ張り出して確認している。瀧田は音楽を続けることが第一で、そのために家族も失ったのだろう。これに対して有朱は金銭が全てに優先するようだ。人間など当てにできない、お金が全て、といったように。有朱が最後に「不思議の国に連れってちゃうぞ」と地下アイドル時代に使っていたようなフレーズを残していくが、おそらく彼女の言う「不思議の国」は欲にまみれた現実の世界で、離れた立場から見ると、そこは非常に歪んだ「不思議の国」なのかもしれない。

有朱が別府に全く関心がなかったのは不思議だ。普通ならいい金蔓になりそうだが、それだけ存在感が薄い、というオチだったか。あるいは、単に誰かのものを奪うのが好きなだけなのかもしれない。別府だけ『鏡の国のアリス』の登場人物とは関係ないので、有朱の視界には入っていなかったという裏の意味を持たせている可能性もある。

朝ドラ的に、実はこの人にはこんないい面もありました、みたいなことを一切やらないのが潔い。その代わり、有朱が今後躓くことを暗示している。有朱は自らヒールをもぎ取り、足元を不安定にした。有朱の姿が見えなくなった後、躓いた声だけ聞こえてくるが、この先有朱が何らかの形でつまずき、それは自分自身で蒔いた種によるものであると暗示している。脚本の遊びとして、この場面は『鏡の国のアリス』と逆のパターンになっている。この中ではアリスがハンプティー・ダンプティー(家森に相当)の元を去った後、彼が塀から落ちる音だけが聞こえてくる。

■ ちゃんとした結果

別府は自分がちゃんとした結果で、ちゃんと練習してなかった連中が世界で活躍していると言う。才能というのはいくら真面目に練習しても得られるものではない。音楽一家の中にあって才能が無いというのは地獄のようなものだったろう。自分自身が芸能一家の出である松田龍平に、別府司という人物にどんな感想を持ったのか聞いてみたいものだ。

そんな経験があるから、別府は一般的ものの見方から開放されているとも言える。だからこそアリではなく、キリギリスになってもいい、と言えるのだろう。穴があるからこそドーナツ.。欠落した部分を含めて、その人だ。しかし、真紀が去ってできた大きな穴は、カルテットにとっては致命的だ。

■ きみの名は、どうでもいい

家森の言い方を借りれば、真紀は、巻真紀→早乙女真紀 に巻き戻り、さらに、早乙女真紀→ヤマモトアキコ、と巻き戻ったわけだ。どんどん過去に戻っていくような姿は、時間が逆回りしているという『鏡の国のアリス』の白の女王のようだ。有朱の退場とともに、最後まで戻りきった感がある。

真紀が自分は早乙女真紀ではないと告白したとき、真っ先に許したのはすずめだった。後で触れるが、二人は同じような経験をした、これ以上ない理解者同士だ。極端に言えば、名前は他者と区別するための記号に過ぎない。どんな過去であろうと、どんな名前であろうと、すずめ達が知っている早乙女真紀と名乗った人物は、お互いに「好き」という感情と信頼で結ばれている。彼女がそこにいる理由としては、それで十分だ。

『千と千尋の神隠し』では千尋は名前を剥奪された上で、油屋の労働システムの中に組み込まれる。つまりはそのシステムの部品となった訳で、それ以外の生き方は許されていない。真紀の場合はその逆で、自ら名前を捨て、既成の枠組みから飛び出すことで、過去も捨てるという代償を伴いつつも自由になった訳だ。4人が出会ったのは、偽の偶然によるものだった。真紀が予めそのことを知っていたとしても、やはりそれは「運命」だと言ったかもしれない。

賠償金をもらって音楽を続けることを、真紀はどう思っていたのだろうか?それが苦痛を伴ったとしても、どうしても音楽は続けたかったように思える。おそらく音楽が、売れない演歌歌手だった母親と自分を繋いでてくれる、唯一残されたものだったのだろう。義父の死をきっかけに別の人生に乗り換えてからも音楽を続けているのは、そういうことだったのかもしれない。しかし本当に追い求めていたのは家族で、だからこそ幹生と結婚すると同時に音楽を手放すことが出来たのだろう。ドーナツホールは音楽も同時にできる疑似家族のようなものであり、「死ぬなら今かなってくらい、今が好き」と言わせるほどの夢の場所だったことになる。

真紀がドーナツホールのメンバーに求めていたのは、家族的な愛であって、恋愛ではない。すずめは自分の別府への気持ちを抑えることで、自然と真紀の立場に近づいていた訳だ。そしてこのドラマの真の狙いも4人の恋愛模様を描くことではなく、4人がお互いに人としていかに繋がれるかを描くことなのだと言っていいと思う。

富山県警の刑事が来た時、真紀とすずめは同じお菓子が食べている途中だった。二人の関係性を享受する途中で終わりが来たことを暗示しているのだろう。その後、真紀が急に唇を気にしだしたのは、お菓子をもっと食べ続けていたかった、つまりすずめ達との関係を続けていたかったという思いの表れなのだろう。

■ 閉じられていく輪

前に出て来たものを別の形で繰り返すことで、次々と輪が閉じられ、何かが終わっていく感覚になる。家森はかつて言われた(LINEだが)「こちらから連絡します」を有朱にそのまま返す。すずめは「好きという気持ちはこぼれる」という真紀の言葉を返す。別府が最初に真紀に会ったときに弾いていた『アヴェ・マリア』を真紀自身が奏でる。そして「ノクターン」で最初に演奏した『モルダウ』を同じ場所で全員で演奏する。奇しくも第9話がOAされた3月14日は円周率(3.14...)の日だった。

家森はみんなに会えたから「人生のやり直しスイッチ」を押す気はないと言っていたが、その傍らで真紀とすずめはスティックドミノという遊びに興じている。これはスイッチを押すと自爆するようにも、何かを破壊する遊びにも見える。他人になりすますことで「やり直しスイッチ」を押したのは真紀だが、回り回って折角見つけた居場所を自分で壊してしまったように思える。

■ 鏡像としての真紀とすずめ

エンディング映像で真紀とすずめが窓をはさんで、お互いに鏡写しになっているように演出されていたが、ドラマの中でもこの二人は鏡像のような関係だった。すずめは子供の頃、自殺者まで出した父親の詐欺事件に巻き込まれている。真紀は事故で母親を亡くしたが、義父は真紀に暴力を振るったうえ、加害者家族に法外な賠償金をふっかけ、それがまた真紀を苦しめた。二人とも母親を亡くし、父親が原因で辛い思いをして来たという点で同じだ。真紀は他人の戸籍を買い、本当の名前を捨てた。すずめは綿来ではなく世吹を名乗っている。二人が名前を変えていることも共通している。

カルテット ドーナツホールを鏡の国とするなら、それは嘘から始まった国だ。そこは世間からずれた、特殊な空間かもしれない。しかし、そこには世間の固定観念に縛られない別府司という番人のような人がいて、曇りもいい天気と言える自由がある。4人の固い絆もできた。すずめはこの国で始めて居場所を見つけ、痛みを共有できる、もう一人の自分とも言える真紀に出会えた。このドラマをここまで観ると、二人が巡り会える場所は、ここしかなかったと思えるから不思議だ。だが結局、この国は真紀の嘘が原因で終わる。

すずめは『鏡の国のアリス』の、眠ってばかりいる赤の王なのだろう。すずめは夢見た居場所をやっと見つけたが、真紀が去ることで、その夢は終わったのだと言える。第9話の最後のシーンは3人だけの食卓。生きて前に進むためには食べなければならない。しかし、真紀のいない食卓には以前の活気は無く、会話もない食事は味気ない。

2017年3月12日日曜日

『カルテット』なぜ第8話が『舌切り雀』なのか


『カルテット』第8話は、日本の昔話である『舌切り雀』がベースになっている。前回のブログでは詳しく書かなかったので、補足として書いておこうと思う。

巻鏡子→おばあさん、根本(チェロを教えてくれたおじいさんの「入れ替わり」的存在でもある)→おじいさん、と考える。すずめは鏡子の作った料理を勝手に食べ始めてしまった。そしてバイト先で鉄板焼きに誘われたと嘘をつく。『舌切り雀』では、勝手に食べたことに怒ったおばあさんは雀の舌を切ってしまうが、すずめは別府に「舌を抜かれる」。もちろん比喩的な意味でだ。エンマ大王は嘘つきの舌を抜く。別府がなぜエンマなのかはこちらを参照。

舌を抜かれた状態とは、別府がまだ真紀のことが好きなのをすずめは知っているので、自分の本当の気持ちを伝えられないということ。おじいさんへの贈り物は、年寄りしかいない不動産屋に若い労働力。そして根本に「眩しいね」と言わせた、恋する心のきらめきだと考えてもいいかもしれない。『舌切り雀』ではおばあさんも雀から土産をもらうが、中身は化け物だった。鏡子の場合は、真紀が正体不明の女だということを知らされる。

とっ散らかった『舌切り雀』だが、こういう解釈もできるということで。脚本家がこの昔話の要素をあちこちに分散して埋め込んだのは、今回の脚本を書くにあたってあくまで元ネタとして使ったか、あるいは簡単に『舌切り雀』だと分かってしまうと、最後(鏡子が恐怖を感じるものに会う)の予想がついてしまうので、あえて分かりにくくしたとも考えられる。

『舌切り雀』は富山県(そう、刑事が来たところだ)を発祥とする説もあるようだが理由は分からない。元々は古典(『宇治拾遺物語』)にあった話なので、それが富山に関係するのだろうか?この昔話の原型は『腰折れ雀』で、腰を痛めた鏡子はヒントでもあったのかもしれない。前に真紀が鏡子をマッサージするという伏線があったので、鏡子が腰を痛めてもそれほど不自然には感じなかった。『腰折れ雀』まで意識していたなら、かなり用意周到だ。

2017年3月9日木曜日

『カルテット』 第8話



すずめの片思いが中心に描かれた第8話。宅建の資格証書には「綿来すずめ」とあったので、少なくとも資格を取った時点ではその名字だった。「世吹」を名乗る理由は相変わらず伏せられたままだが、そんなことを吹き飛ばしてしまうような出来事が最後に起きた。

■ 片思いは一人で見る夢


一体別府は何度真紀に告白すれば気が済むのだろうか?(笑)「またですか?」とか言われたらお終いだと思うけど。これだけしつこいと、脚本家が例の映画(『告白』)を思い出させようとしているのかと勘繰ってしまう。

真紀が別府にバッハの『メヌエット』を弾いてみせたのが、ちょっと気になる。ピアノの練習曲ということなのだろうが、これは"A Lover's Concerto"という曲の元にもなっている。



この歌はざっくり言うと、二人が恋に落ちたずっと後になっても嘘偽りなく愛していてくれたら最高ね、という内容。これを誘い水だと別府が勘違いして改めて告白してしまったとも考えられる。歌詞に「セレナーデ」(小夜曲)が出て来るが、この曲を弾いている場所が「ノクターン」(夜想曲)なのも面白い。

親が自分の子供に対して持つ気持ちは、ある意味「片思い」と言えるかもしれない。巻鏡子は息子を信じるあまり、真紀を疑い続けた。前回、腰痛をおして食器を階段まで運んで来たが、離婚して関係なくなったのに別荘に置いてもらってることや真紀を疑った申し訳無さで相当肩身が狭かったことを物語っていた。しかし体が回復すると説教しだすのは、これがこの人の通常モードで、幹生が逃げ出した理由も分かるのである。だが4人は説教をスルーして「だるまさんがころんだ」みたいにして食事を始める。まるで口煩い母親とふざけ合う兄弟のようだが、子供の頃に出来なかったことを今埋め合わせているようにも見える。そんな他愛もないことが、たまらなく愛おしい時間だと感じられるのではないか。そしてそれはいつまでも続かない予感をはらんでいる。

元Vシネ俳優にして「寸劇の巨人」家森は、すずめに片思い。すずめはトイレのスリッパを履いたままだったりと大雑把なところは元妻・茶馬子と共通している。すずめの別府への気持ちを知っているので、鉄板焼きに誘われたことが嘘だと見抜き、たこ焼きを買って来て食べさせるという健気さを見せる。家森は「片思いは一人で見る夢。両思いは現実。片思いは非現実」、そして「夢の話をして『へえ』と言わせないで」とも言っている。彼自身は告白することなく、せいぜい寸劇というシミュレーション的なものに留まっているのである。

すずめは別府の弟が別荘を売ろうとしており、さらに自分たち「ダメ人間」が別府に負担をかけていることに気付く。「布団の中で暮らすこと」が夢だったすずめは、別府のためにバイトすることにする。バイト先の根本は、すずめにチェロを教えてくれた「白い髭のおじいさん」を想起させるが、今度はすずめがパソコンの使い方を教えるという逆の立場になることで、彼女の成長と、変形した『舌切り雀』の恩返しのようなものを感じさせる。

すずめはこれまで別府のベッドに潜り込んだり、キスしたりしているので、言葉にはせずとも告白しているようなものだが、家森の「冗談です」とは違うやり方でなかったことにしようとする。大した意味ないんです、そんなこと忘れちゃって下さい、と見えるように。家森の「お離婚」が聞こえたのだろう。だからそれを意識して、別府と蕎麦を食べるとき「お昼」以外なんで朝と夜には「お」を付けないかという話題を持ち出してしまう。切ない。

すずめは自分の気持を抑え、別府と真紀をくっつけようとする。その理由は「二人とも好きだから」。サボテンに水をやるように、二人の花が咲くよう色々な画策をする。しかし自分の気持を止めることはできない。別府とデートした夢を見たすずめは目覚めると、その夢の続きを追いかけるように走り出す。辿り着いたのは「夢」と冠せられたコンサート会場で、そこにはデート中の別府と真紀がいる。片思いが夢ならば、それは夢の続きとも言えるが、自分が別府と一緒にいないという現実を見ることでもある。すずめは二人が一緒いた安堵感と辛さ合わさり、微笑みながら涙を流す。すずめの微笑みの裏側には、辛さが同居していることが多い。

考えてみれば、ドーナツホールの4人全員が音楽に「片思い」しているようなもので、4人で同じ夢を見ているとも言える。果たして「夢の沼」に沈んでしまうのか、それとも「丁度いい場所」を見つけられるのか...

■ 入れ替わり


今回は「入れ替わり」が何度も提示された。すずめが期待したナポリタンの代わりに蕎麦。入れ替わり立ち替わり蕎麦を食べる4人、など。誰でも気付くように何度も繰り返している。このように、最初から一貫してこのドラマの演出は視聴者に分かり易いようにしている。しつこいくらい半田にアポロチョコを持たせたり、巻家ではカメラ側に花を置いたり、といった具合に。これくらいしないと視聴者には伝わらないと番組制作側は考えているのだろう。

4人の体が入れ替わる夢を見たと別府が言ったのは、『君の名は。』を思い出してもらうためだろう。最後に真紀は早乙女真紀でなく、「誰でもない女」であることが示されるが、「入れ替わり」が何度も提示されたことを素直に延長すれば、真紀もまた誰かと入れ替わっていると考えられる。

すでに第3話で真紀の入れ替わりを予感させるようなことが起きている。すずめは父親に会うことを拒否したが、真紀は病室まで行っている。父親が意識混濁状態なら、娘が最後に会いに来てくれたと思っただろう。そういう意味では、自覚的ではないが、真紀はすずめの入れ替わりの役を既に行っている。

今後真紀がすずめに成り代わり、すずめの過去を引き受けて生きる、みたいな展開があるかどうかは分からないが、すずめは過去という籠の中にまだ閉じ込められているようなので、少なくともすずめに対して何らかの救いがもたらさなければ、このドラマは終われない。すずめはよく眠るが、いずれ「目覚め」が訪れるという流れでもあるように思う。

2017年3月2日木曜日

『カルテット』 第7話



『マツコの知らない世界』では「ダム・カレー」の特集があって、『カルテット』とはまさかのダムつながりだった(笑)。前回は真紀と幹生が出会って離れるまでをシリアス基調で描いたが、今回は一転してコメディー調。クドカンを意識した構成なのだろう。前回と合わせて1話にまとめることも出来ただろうが、結果的に面白かったからいいのではないだろうか。

■ 猫とネズミのエンディング

真紀と幹生が再会したところからエンディングテーマが流れる。まさに二人の関係の「終わりの始まり」といった感じだ。幹生が有朱を殺してしまった(勘違いだが)ことを聞かされた真紀は、自分の身を投げ打って逃げることを提案する。真紀には幹生への愛がまだある。そして幹生も、体を張って有朱から真紀のヴァイオリンを取り戻そうとしたのだから、真紀への愛は残っている。しかし、前回、幹生がすずめに自分の結婚指輪を「指輪に見えるオブジェ」と言ったのは、彼の率直な気持ちだったのだろう。もはや自分にとっては結婚を意味していない、ただの物体に過ぎないのだと。

幹生は真紀を巻き添えにすることを望まず、自分一人で湖に沈もうと真紀を置いて車を走らせる。真紀は有朱が乗って来た車で追いかける。逃げる幹生と追う真紀は、ネズミと猫にも例えられる。「ミキオ」という名前はミッキーマウスから来ているのだろう。失踪直前、テレビに映っていたのはカピバラ(大型のネズミ)だった。詩集の栞になってしまった猫の落書きは、真紀が猫好きだったから二人で描いたのだろう。真紀は猫のエプロンもしていたし、「やっぱり猫が好き」だったのだ(笑)。そして二人が猫とネズミなら、共に暮らしていくことは不可能、ということでもある。

唐突に離婚届の話が出て来たのは強引だった。事前に幹生が真紀に離婚届を送っていたことを視聴者に知らせてしまうと、幹生の生存がバレてしまうので、ここでねじ込んできたのだろう。「離婚届はどこで出せばいい?」が前フリみたいになっていて、二人が東京の自宅へ向かうことで、ここが二人の終着点なのだと感じさせる。

別れの予感を背中に感じながら、自宅に戻った二人はかつてそうしたように、ふざけたり、おでんを食べて時を過ごす。それは別れの儀式のようでもあった。そして幹生の「きみには幸せになって欲しい」という言葉が幕引きとなり、真紀は幹生との溝を埋め戻すことができないと悟る。

『鏡の国のアリス』には「同じ場所に留まるためには全力で走らなければならない」というセリフが出て来る。前回、真紀と幹生は二人の間にズレがあることに気づき、何とかしようとそれぞれ走り出す場面があった。結局二人は足を止めてしまい、それが別れを決定づけてしまった。

■ 終わりは始まり

何度も「巻き戻し」のような場面が出て来た。雪の斜面を滑り落ちては上がってくる家森。呼び止められて何度も階段を昇り降りする真紀。バックのまま車を走らせる有朱。家森は真紀は巻き戻って早乙女真紀に戻り、カルテットにも戻ったと言う。だが、真紀が一番望んだ幹生の心は巻き戻らなかった。

『鏡の国のアリス』でアリスは丘へ向かおうと歩き出すが、何度やっても元の場所に戻ってきてしまう。真紀もまた同じ場所へ戻って来た。人はそれぞれ違うものだし欠点だってある。それらを許容できないと生き辛い。真紀は幹生と自分の違いを楽しめたが、幹生はそうではなかった。真紀はドーナツホールの面々は欠点でつながっていると言った。彼らは家族など、本当はつながりたかった人とつながれなかった人達の集まりでもある。

ついでに『鏡の国のアリス』のことで付け加えると、前回から何度も花が巻家に登場する(『あまちゃん』の花巻さんは関係ないだろうw)。なくても良さそうだが、『鏡の国のアリス』では喋る花が登場するので、これに因んだものなのだろう。さすがに花に喋らせる訳にはいかないので、代わりに「花言葉」に頼ることになる。

何かの終わりは別の何かの始まりでもある。最後にすずめは真紀といつもタイトルバックで使われる曲で、何かが始まりそうな予感を奏でる。

■ それぞれの望み

今回登場人物にはそれぞれ望むものがあった。家森は逃げ出したサル、有朱は真紀のヴァイオリン、別府は倉庫からの早期脱出、真紀は夫。それぞれの望みはそれぞれの理由で阻まれ、結局誰も望んだものを得られなかった。そんな中、すずめが真紀を取り戻せたことが唯一の救いかもしれない。すずめが真紀をタクシーで追いかけている間、別府は倉庫に缶詰め状態、家森はサル探し、巻鏡子も腰を痛めて動けなくなっている。このドラマでは真紀とすずめの関係性が大きな軸になっているのだと感じさせる。

■ 罪と罰

有朱は家森から楽器が高価なことを知ると、青いふぐりのサルなんか探してる場合じゃない(見つかっても10万円で、だいたい闇雲に探しても見つかる訳がない)、とばかりに誰もいない筈の別荘に駆けつける。これはメーテルリンクの『青い鳥』のパロディーでもあるのかもしれない。どこにあるか分からない幸せよりも、有朱はとりあえず金に飛びつくのだと。そう言えば、メイン演出でチーフプロデューサーの土井祐泰はドラマ『青い鳥』(野沢尚脚本)の演出もやっていた。このドラマは逃避行の話なので、今回の真紀と幹生とも重なる。

以前有朱は執拗に真紀に絡んでいたので、金のためだけでなく、真紀を困らすことも目的でヴァイオリンを盗もうとしたのかも知れない。しかし、居合わせた幹生と揉み合いになり、転落。命に別状はなかったが、ダム湖に投げ込まれそうになったりと、散々な目にあったので、本人からすれば十分償ったような気でいるのかもしれない。ただ、幹生が有朱を死なせたと勘違いしなければ、すぐに警察に自首してしまい、二人で最後の時間を過ごすことはなかったかもしれない。そういう意味では有朱は貢献しているのだ。真顔で車をバックさせる吉岡里帆を見て、この人がコミカルに振り切った演技がどのくらいできるか見たくなった。

すずめは幹生に拘束され、さらに真紀からも突き放される。すずめは自力で拘束を解いて真紀を追いかけ、コンビニでやっと真紀を捕まえる。私も食事に混ぜて、と言わんばかりに真紀達のおにぎりに自分の分を加える。まるで自分をおいて出掛けようとする母親に必死でついていこうとする子供のようだ。自分が真紀を騙していたことを、幹生に拘束されたことでチャラにしてもらうのも子供っぽい。

真紀はすずめに言う。「抱かれたいの」半分はすずめを振りほどくため、半分は本心なのかもしれない。別荘に戻ったすずめがチェロで弾いた曲は"Both Sides Now"。すずめにとって真紀は、父親の死に際に会いたくないという気持ちまでも受け入れてくれた人である。いつも見ている真紀の母親のような側面と、女の側面の両方を見てしまったのだろう。椎名林檎の『罪と罰』という曲を思い出した:

あたしの名前を
ちゃんと呼んで
体を触って
必要なのはこれだけ
認めて

■ 幹生とすずめの相似

第1話を観たとき、幹生とすずめは兄妹なのではないかと思ったのだが、そういうことではなかったらしい。幹生は平熱が高く、家に帰るとすぐ靴下の脱ぐ。すずめも演奏前に靴下を脱いで裸足になったり、三角パックの冷たいコーヒー牛乳を冬でも飲んでいるので、暑がりなのは確かだろう。幹生はレモンが嫌いなことや、気持ちが離れていることを真紀に言えずにきた。結局真紀を騙してきたわけだ。すずめも最初から真紀に嘘をついて騙していた。こうした幹生とすずめの相似は、真紀が幹生を失った後、すずめがその代わりのような役割をする、ということを示しているのではないか。次回の予告だと、すずめは自分の別府への気持ちを抑え、真紀と別府の仲を取り持とうとするらしい。「幸せになって欲しい」と願った幹生の気持ちを引き継いでいるのかも知れない。