■ 炎上クイーンの退場
有朱は株で損したことを知ると、財産のある谷村大二郎に言い寄る。真紀のヴァイオリンを盗もうとしたときのように、この人は短絡的な行動を取る。谷村にはあっさり跳ね除けられ、おまけに彼の妻にその様子を見られてしまい、「ノクターン」をクビになる。炎上クイーンはケーキも燃やす(笑)。店を辞めて出ていくときも、有朱には全く悪びれた様子はない。女王様のように堂々と去って行く。ベンジャミン瀧田の時と同様に、有朱も金を貰って出て行くが、両者の態度は対照的だ。瀧田は金の入った封筒の中をチラッと見るだけ。有朱は札を引っ張り出して確認している。瀧田は音楽を続けることが第一で、そのために家族も失ったのだろう。これに対して有朱は金銭が全てに優先するようだ。人間など当てにできない、お金が全て、といったように。有朱が最後に「不思議の国に連れってちゃうぞ」と地下アイドル時代に使っていたようなフレーズを残していくが、おそらく彼女の言う「不思議の国」は欲にまみれた現実の世界で、離れた立場から見ると、そこは非常に歪んだ「不思議の国」なのかもしれない。
有朱が別府に全く関心がなかったのは不思議だ。普通ならいい金蔓になりそうだが、それだけ存在感が薄い、というオチだったか。あるいは、単に誰かのものを奪うのが好きなだけなのかもしれない。別府だけ『鏡の国のアリス』の登場人物とは関係ないので、有朱の視界には入っていなかったという裏の意味を持たせている可能性もある。
朝ドラ的に、実はこの人にはこんないい面もありました、みたいなことを一切やらないのが潔い。その代わり、有朱が今後躓くことを暗示している。有朱は自らヒールをもぎ取り、足元を不安定にした。有朱の姿が見えなくなった後、躓いた声だけ聞こえてくるが、この先有朱が何らかの形でつまずき、それは自分自身で蒔いた種によるものであると暗示している。脚本の遊びとして、この場面は『鏡の国のアリス』と逆のパターンになっている。この中ではアリスがハンプティー・ダンプティー(家森に相当)の元を去った後、彼が塀から落ちる音だけが聞こえてくる。
■ ちゃんとした結果
別府は自分がちゃんとした結果で、ちゃんと練習してなかった連中が世界で活躍していると言う。才能というのはいくら真面目に練習しても得られるものではない。音楽一家の中にあって才能が無いというのは地獄のようなものだったろう。自分自身が芸能一家の出である松田龍平に、別府司という人物にどんな感想を持ったのか聞いてみたいものだ。そんな経験があるから、別府は一般的ものの見方から開放されているとも言える。だからこそアリではなく、キリギリスになってもいい、と言えるのだろう。穴があるからこそドーナツ.。欠落した部分を含めて、その人だ。しかし、真紀が去ってできた大きな穴は、カルテットにとっては致命的だ。
■ きみの名は、どうでもいい
家森の言い方を借りれば、真紀は、巻真紀→早乙女真紀 に巻き戻り、さらに、早乙女真紀→ヤマモトアキコ、と巻き戻ったわけだ。どんどん過去に戻っていくような姿は、時間が逆回りしているという『鏡の国のアリス』の白の女王のようだ。有朱の退場とともに、最後まで戻りきった感がある。真紀が自分は早乙女真紀ではないと告白したとき、真っ先に許したのはすずめだった。後で触れるが、二人は同じような経験をした、これ以上ない理解者同士だ。極端に言えば、名前は他者と区別するための記号に過ぎない。どんな過去であろうと、どんな名前であろうと、すずめ達が知っている早乙女真紀と名乗った人物は、お互いに「好き」という感情と信頼で結ばれている。彼女がそこにいる理由としては、それで十分だ。
『千と千尋の神隠し』では千尋は名前を剥奪された上で、油屋の労働システムの中に組み込まれる。つまりはそのシステムの部品となった訳で、それ以外の生き方は許されていない。真紀の場合はその逆で、自ら名前を捨て、既成の枠組みから飛び出すことで、過去も捨てるという代償を伴いつつも自由になった訳だ。4人が出会ったのは、偽の偶然によるものだった。真紀が予めそのことを知っていたとしても、やはりそれは「運命」だと言ったかもしれない。
賠償金をもらって音楽を続けることを、真紀はどう思っていたのだろうか?それが苦痛を伴ったとしても、どうしても音楽は続けたかったように思える。おそらく音楽が、売れない演歌歌手だった母親と自分を繋いでてくれる、唯一残されたものだったのだろう。義父の死をきっかけに別の人生に乗り換えてからも音楽を続けているのは、そういうことだったのかもしれない。しかし本当に追い求めていたのは家族で、だからこそ幹生と結婚すると同時に音楽を手放すことが出来たのだろう。ドーナツホールは音楽も同時にできる疑似家族のようなものであり、「死ぬなら今かなってくらい、今が好き」と言わせるほどの夢の場所だったことになる。
真紀がドーナツホールのメンバーに求めていたのは、家族的な愛であって、恋愛ではない。すずめは自分の別府への気持ちを抑えることで、自然と真紀の立場に近づいていた訳だ。そしてこのドラマの真の狙いも4人の恋愛模様を描くことではなく、4人がお互いに人としていかに繋がれるかを描くことなのだと言っていいと思う。
富山県警の刑事が来た時、真紀とすずめは同じお菓子が食べている途中だった。二人の関係性を享受する途中で終わりが来たことを暗示しているのだろう。その後、真紀が急に唇を気にしだしたのは、お菓子をもっと食べ続けていたかった、つまりすずめ達との関係を続けていたかったという思いの表れなのだろう。
■ 閉じられていく輪
前に出て来たものを別の形で繰り返すことで、次々と輪が閉じられ、何かが終わっていく感覚になる。家森はかつて言われた(LINEだが)「こちらから連絡します」を有朱にそのまま返す。すずめは「好きという気持ちはこぼれる」という真紀の言葉を返す。別府が最初に真紀に会ったときに弾いていた『アヴェ・マリア』を真紀自身が奏でる。そして「ノクターン」で最初に演奏した『モルダウ』を同じ場所で全員で演奏する。奇しくも第9話がOAされた3月14日は円周率(3.14...)の日だった。家森はみんなに会えたから「人生のやり直しスイッチ」を押す気はないと言っていたが、その傍らで真紀とすずめはスティックドミノという遊びに興じている。これはスイッチを押すと自爆するようにも、何かを破壊する遊びにも見える。他人になりすますことで「やり直しスイッチ」を押したのは真紀だが、回り回って折角見つけた居場所を自分で壊してしまったように思える。
■ 鏡像としての真紀とすずめ
エンディング映像で真紀とすずめが窓をはさんで、お互いに鏡写しになっているように演出されていたが、ドラマの中でもこの二人は鏡像のような関係だった。すずめは子供の頃、自殺者まで出した父親の詐欺事件に巻き込まれている。真紀は事故で母親を亡くしたが、義父は真紀に暴力を振るったうえ、加害者家族に法外な賠償金をふっかけ、それがまた真紀を苦しめた。二人とも母親を亡くし、父親が原因で辛い思いをして来たという点で同じだ。真紀は他人の戸籍を買い、本当の名前を捨てた。すずめは綿来ではなく世吹を名乗っている。二人が名前を変えていることも共通している。カルテット ドーナツホールを鏡の国とするなら、それは嘘から始まった国だ。そこは世間からずれた、特殊な空間かもしれない。しかし、そこには世間の固定観念に縛られない別府司という番人のような人がいて、曇りもいい天気と言える自由がある。4人の固い絆もできた。すずめはこの国で始めて居場所を見つけ、痛みを共有できる、もう一人の自分とも言える真紀に出会えた。このドラマをここまで観ると、二人が巡り会える場所は、ここしかなかったと思えるから不思議だ。だが結局、この国は真紀の嘘が原因で終わる。
すずめは『鏡の国のアリス』の、眠ってばかりいる赤の王なのだろう。すずめは夢見た居場所をやっと見つけたが、真紀が去ることで、その夢は終わったのだと言える。第9話の最後のシーンは3人だけの食卓。生きて前に進むためには食べなければならない。しかし、真紀のいない食卓には以前の活気は無く、会話もない食事は味気ない。
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