2017年1月26日木曜日

『カルテット』 第2話



別府の恋愛回だった。別府が意外とグイグイ(笑)で、真紀に告白してフラれた後、九条結衣(菊池亜希子)にも告白する。別府は結衣に対して「行けたら行くね」状態だったが、いざ行ってみるともう席は無い。結衣は自分も別府もズルい、と言う。二人は最後の思い出だけ作って別れることになる。壊れたメガネは別府の気持ちを表している。寒いベランダでラーメンを食べるシーンは『問題のあるレストラン』(ビルの屋上にレストランがあった。菊池はこちらにも出演)を思い出した。

はじめに書いてしまうが、この第2話は傑作だと思う。過度に泣かすようなことはせず、笑いも入れながら抑制の効いた作品に仕上げられている。脚本の精緻さに呆然としてしまう。その凄さがここに書いたもので伝わればいいのだが。ただ表面を見ればすぐ分かるようなことは、必要最小限に止めたいと思う。どうせ他の誰かが書いてるだろうから。ここでは余り触れてなさそうな点を中心に書く。

■ カーリングと真紀の役割


カーリングのくだりが無くても話は成立する。わざわざ残しているのは、そこには意味があるということ。カーリング用のストーンを見つけ、それを押し出したのは真紀。たぶん重いストーンは別府の心で、どこにも動けなかったそれを結果的に後押しするのが真紀、ということだろう。別府は真紀に告白し拒否されたことで、はじめて自分の結衣への気持ちに気付く。まだ分からないが、別府だけでなく、他の二人も真紀に後押しされる形で、今まで抱えていたものを清算することになるのかもしれない。前回も真紀以外の3人が氷の上で転ぶシーンがあった。今回別府は失恋した(しかも二重に)ので、それを「転んだ」と捉えることもできる。そして立ち上がるのを助けるのも真紀の役割かもしれない。

■ 左手で騙す


巻鏡子が手品師は「右手で注意をひきつけ、左手で騙す」とすずめに語った。すずめは別府が両手で持ったアイスのうち、左手の方を選んだ。その前にすずめは別府が真紀を好きなことを確認し、自分は家森が好きだと言っている。左手のアイスを選んだのは、さっきのは嘘だったという表れか。二人はコンビニの外にあるベンチに並んでアイスを食べたが、間は少し空いている。別府と結衣はベランダでくっつきながら温かいラーメンを食べた後、別れた。2つのシーンが対比的に描かれているので、今後は別府とすずめの距離が縮まっていくのだろう。

ドラマの最後の方で、すずめはワインの空き瓶2本を捨てようと左手で持つ。この時すずめは真紀に嘘をつく。自分は別府のことが好きではないと。真紀は誰かを好きな気持ちは勝手にこぼれるものだと言うが、おそらく真紀はすずめが別府の写真を見ていたことに気付いている。自分のスマホが見られたことも気付いているかもしれない。真紀はすずめが線香の匂いがして謎だとかカマをかけている。この二人の騙し合いが今週一番「みぞみぞ」したところだ。

■ 白と赤


白は結衣を象徴する色。結衣は白を着ていて、『White Love』が好きなのだろう。九条ネギだから白、でもいいと思うw。もちろんウェディングドレスのイメージも白だ。『アヴェマリア』は別府が初めて真紀に会ったときの曲。結衣の結婚式で別府が独奏した曲は『アヴェマリア』から『White Love』に変わる。「別府くんもズルい」と言った結衣への答えでもあるようだ。別府の気持ちが真紀からいつの間にか結衣に向いていたことを表し、それが本当の別れとなる。

結婚式の後、別府はX Japanの『紅』を歌う。このときコルセット的なものを首に巻いている。別府が結衣と別れた後、首に巻かれていたのは結衣の赤いマフラーだった。赤は結衣との思い出を象徴する色となった。別府はもう『White Love』を歌うことはないだろう。赤いマフラーにつながる『紅』を噛み締めながら歌うしかない。すずめが赤を着ていることが多いので、別府がすずめへ向かう暗示でもあるのかもしれない。

白と赤はワインの色でもある。前述したようにワインの空き瓶2本を捨てようとしたのは、すずめ。さらに空き瓶を洗っていたのは真紀だ。ここには、真紀が別府の思いを清算させていること、そしてすずめが別府に結衣のことを忘れさせるような存在になることが暗示されている。

■ 人魚と半魚人


ブイヤベースを食べている時に餃子の話をされると、餃子を食べている気分になる。別府もそんな状態だったのかもしれない。結衣がいるのに真紀を運命の人だと思い込み過ぎた。最初に真紀の『アヴェマリア』を聴いて心を奪われ、度重なる偶然で真紀を見かけることで、別府は真紀をすっかり運命の人だと思い込んだ。そんな真っ直ぐでブレない気持ちは、学生のときからずっと同じ「みかんつぶつぶジュース」を飲んでいることで表現されている。この強い思い込みのため、自分の結衣への気持ちに気付かなかった男の悲劇であると思う。

『人魚対半魚人』という映画が出てきた。どちらも半分魚、半分人間だが見た目は大きく違う。人魚=九条結衣、半魚人=別府、と考えると、結衣の気持ちは半分は別府、半分は婚約者、ということになる。別府の場合、半分は真紀、もう半分は結衣、ということになる。人魚は上下できれいに人と魚に分かれているが、半魚人は入り交じった姿をしている。外見からは気持ちがどちらを向いているか分らないということだろう。人魚である結衣は歌っているのだから、ここにも意味があると考えてみよう。

人魚伝説はいくつかあるが、だいたいは人魚の歌声に魅せられた者は水の中に沈められるパターンのようだ。ヴァイオリンを弾く真紀に心を奪われる別府の姿は、人魚の歌声のとりこにされた男のようでもある。そして自分のすぐ隣で歌う人魚(結衣)には気付けなかった。本来人魚の歌声に魅了される筈が、真紀のヴァイオリンの音色で沈んでしまった感じだ。別府は真紀に告白を拒絶され、はじめて結衣への気持ちに気付くが、結衣は結婚を取り消す気はない。すでに唐揚げにレモンはかけられていたのだ。二人が夜明け直前ぐらいベランダで最後にラーメンを食べたとき、結衣はこれが私たちのクライマックスだと言った。結局二人には夜明けは訪れなかったのだ。

■ フライドポテトと宇宙人


別府は「メガ盛り」を頼むほど、フライドポテトが好きだったはずだ。ジェンガのように積み上げられたポテトは、別府の真紀への思いだったのかもしれない。別府が告白した後、「捨てられた女ナメるな!」でポテトタワーは倒れる。結衣の結婚式の後のカラオケでは、ポテトには手をつけずに『紅』を歌う。真紀への思いが終わったのだと感じさせる。

別府の宇宙人コスプレも笑いのためだけでなく、文字どおり真紀にとって別府はエイリアン(未知の人)だったということだ。例え別府が何度も真紀を見かけても、声すらかけなかったのだから。しかし、一緒にカルテットを始めて、もはや別府は真紀にとってエイリアンではない。別府は真紀が最初の出会いを覚えておいてくれたことを、せめてもの救いにするしかない。

2017年1月18日水曜日

『カルテット』第1話



作品を選んでドラマに出る人が少ない中、このメインキャスト4人は作品を選んで集まった感が強い。坂元裕二の脚本だからだろう。第一話を観てみたら、期待通り、いやそれ以上だった。だから勢いでメモを兼ねてレビュー的なものを書いてしまおうと思う。

■ 演技が堪能できる


ドラマを観ていると、演者達の演技をひたすら観ていたいと思うことが時々ある。もう脚本は彼らが演技するための口実に成り果ててもいい、ずっと観ていたいと。『カルテット』でもそんな感覚が味わえそうだ。松たか子、満島ひかり、松田龍平、高橋一生。この4人の演技を今更どうこう言う必要はないだろう。確かに楽器を弾くときははまだ覚束ない感じだが、時間が経てばそこそこ見られる位までは持っていってくれると思う。満島の演技のこととか書きたいところだが、今後のネタバレ要素を含んでいそうなので、今は止めておく。間違いなく4人の演技バトルがこのドラマの見所のひとつだろう。

脇役にも期待できると思う。『ゆとりですがなにか』で存在感を見せた吉岡里帆。出番は少なかったが、闇を抱えてそうな印象を上手く残したと思う。八木亜希子は『あまちゃん』のときも素晴らしかったが、今回も役にはまれば期待できそうだ。

■ 唐揚げとレモン


巻真紀(松たか子)が話の中心になっている。そこらにあるキラキラネームよりもよっぽどタチが悪い名前なので、途中まで真紀の結婚自体が妄想なのではないかと疑っていた(笑)が、どうやら結婚はしていたらしい。最初真紀の声は聞き取れないくらいのピアニッシモ状態だったが、だんだん大きくなり、最後の方の「A(アー)下さい!」ではフォルテくらいにはなっていた。単に人見知りがだんだん他の3人に慣れてきたことを表すのか、それとも他に意味があるのか...

世吹すずめ(満島ひかり)は真紀の義母(もたいまさこ)から依頼される形で真紀に近づく。家森諭高(高橋一生)と別府司(松田龍平)は、どうやら自発的に接触を試みたようだが、まだ断定できない。都合よくカルテットが組めるようになっていたのは、誰かが意図的にそう仕向けた可能性もあるからだ。

セリフの掛け合いでダダーと進んでいくところが坂元裕二の持ち味の一つなのだろうが、人によっては鼻につくかもしれない。唐揚げにレモンかける、かけない、の話も新鮮味があるわけではない。ただ話の内容よりも、家森がウザいくらいのコダワリくんであるとか、レモン勝手にかけちゃう派(別府、すずめ)、かけない派(家森、真紀)というキャラであることは、今後につながってくると思う。「レモンをかけた唐揚げは不可逆」とも言ってるので、4人はもう後戻りできない状態にある、ということかもしれない。

■ あしたのジョー


4人はもはや音楽の夢を追っていい年ではない。夢を実現させるなら、今が最後のチャンス、といったところか。その夢の成れの果てのような形で出てきたのがベンジャミン瀧田(イッセー尾形)。高橋と尾形がイッセーつながりなのは偶然なんだろうね(笑)。真紀は瀧田を強引に追いやる形で自分たちのカルテットを後釜にすえる。自分が嘘をついているのに他人の嘘は許さない、というよりも、音楽の道を進むしか無いという決意の表れか。「愛しているけど好きじゃない」と言った夫への未練を断ち切りたいという思いもあるのだろう。真紀自身「夫婦は別れられる家族」と言っている。

あしたのジョーは最後に白く燃え尽きる。瀧田も再登場してそういう姿を見せるのかも知れない。

■ ドーナツの穴


「何かが欠けてる奴が奏でるから音楽になる」という瀧田の言葉に触発されたのか、別府は急遽カルテットの名前を「ドーナツ ホール」に変えてしまう。おそらく4人は欠落をかかえており、それが何かは徐々に明かされていくことになるのだろう。真紀の場合、それは夫のようであったが。

■ ティッシュと天気


真紀とすずめが家森のティッシュ(紫式部!)を使うくだりも、何か意味ありげ。ティッシュは一つ取り出せば次がでてくる。数珠つなぎのように何かが出てくる前フリか。二人とも天気は曇りが好きだと言う。おそらく今後対峙することになりそうな二人だが、もしも違う出会い方をしていたらいい友達になれたかも、ということなのか?

■ 散りばめられたヒント


初回からこんなにヒントを出していいの?というくらい、あちこちに散りばめられている。4人はそれぞれ嘘をつき、片思いだという。真紀の嘘は夫婦関係だった(実際には夫は一年前に失踪)。別府の嘘は同僚の彼女がいるのに、どうやら真紀に気があるらしいこと(ひねりが無ければ)。この辺は表面にはっきり出ているところ。他にも何故すずめに声がかかったのかも何となく想像できる(ヒントは靴下、というより平熱の高さ)し、家森の嘘もだいたい見当がつく。家森の場合、あるフラグがバンバン立っているので、真相が分かったとき、高橋一生ファンから悲鳴が上がるかもしれない。その前に『池袋ウエストゲートパーク』の電波くんでも見て、悲鳴の練習をしておいた方がいいかも(笑)。

4人はそれぞれの思惑を持ちながら軽井沢の別荘で共同生活する。嘘がバレていくにつれ、サスペンス感が高まっていきそうだ。中盤あたりで4人の秘密が全て明らかになる山場がくる構成なのかもしれない。で、さらにその先に何かがある、みたいな。坂元裕二の場合、終盤ガタつく不安があるので、今回はちゃんと最後までプロット練っておいてくれることを祈っている。

2017年1月11日水曜日

朝ドラ『べっぴんさん』の作られ方 (3)

キアリスの製品が上質なものであるという説得力を出すためには、すみれ達がそれなりに裁縫などの技術や知識を身に着けたことを映像として見せることが不可欠だと思った。例えば、女学校時代に裁縫学校の先生もやっているような人が手芸クラブの顧問になり、基礎的なことをすみれ達にみっちり教え込む、とか。キアリスが開業してからも、さらに自分達の技術を磨くような描写があればいいのに、とも思った。しかし、そういう描写は一切無かった。さすがにすみれが刺繍を始めたときは練習している様子はあったが、その程度だ。だから手芸クラブの延長みたいなキアリスの製品が評価され、どんどん売れていく様子が描かれても、視聴者にはモヤモヤ感がどうしても残る。

すみれ達が努力している姿を出来るだけ見せないようにしているのは、意図的なものだと思う。『少年ジャンプ』的主人公に努力は不要なのだ。主人公には無条件に好意、幸運が与えられ、物事は努力しなくても、結局上手くいくのだ。子供の全能感、地球は自分を中心に回っているような感覚、を浴びることができるのだろう。

すみれや紀夫達は昭和25年くらいで20代くらいの設定だが、あえて中身は十代にも感じられるような作りにしているのだと思う。すみれが相変わらずすぐに泣いたり、紀夫がグズグズしていたり、衝動的な行動(すみれをひっぱたく、とか)を取るのも子供の部分を感じさせるのが狙いではないかと思う。だからキアリスが会社組織になっても、手芸クラブの延長のような雰囲気を漂わせているのは狙い通りということになる。

簡単に言えば『べっぴんさん』は子供向けの作りになっている。大人から見れば破綻した話でも、子供の目線からは成立する。子供は知らないものはそういうものとして一旦飲み込む。フィクションを読み解くスキルも発達していないので、不整合があっても気付かない。すみれ、君枝、良子にあまり個性を持たせないことで感情移入しやすくしている。キャラ同士の摩擦が徐々に高まりやがて発火する、みたいな時間がかかることはせず、いきなり火を付け、近くのバケツで消化、みたいなお手軽なことを繰り返しているのも、尺が30分のアニメに合わせたような構成だ(だいたい2回分で問題が起こり解決してしまう)。ただし、ここで書いた子供とは必ずしも本当の子供ではない。

NHK、というよりも今のテレビの一番の課題は、若者をテレビにどうつなぎとめるか、または取り込むか、ということだろう。スマホやPCよりテレビは優先度が低い時代だ。特に受信料を取るNHKにとっては重大な懸念材料であることは間違いないと思う。『べっぴんさん』の最大の狙いは、朝ドラという知名度の高い枠で視聴者の年齢層をできるだけ下げることにあると思う。さすがに十代は難しそうなので二十代くらいを狙っているのではないか。そのためにはドラマを子供向けレベルまで落とす必要があったのだと思う。そこまでしないとついて来てくれない。それが現状。

ドラマの途中が飛び飛びになっているのは、すみれという女性を丹念に描く気が最初からないからだ(かと言って、群像劇と呼べる程のものにはなっていない)。戦争描写から逃げる意味もあったのだろうが、普通は女学校時代のエピソードを積み重ね、より効果的に終戦を迎えた方がドラマとしては正解の気がする。このドラマはすみれの成長物語というよりも、そう見えなくもないくらいの線を狙っているのだと思う。

もちろん従来の朝ドラ視聴者を切り捨てることは出来ないので、戦中、戦後といった時代背景や、麻田や五十八などのキャラを用意し、それなりのエピソードも作っている。子育ての悩みとか旦那あるある、みたいのものも次々と提示されている。よさげな映像や音楽は、雰囲気で誤魔化そうという姑息さを感じるが。

ここまで書いたことはドラマの前半(昭和20年台まで)までのことで、後半からは少し変えて来る気がしている。すみれ達も30代になり、さすがに中身は少年少女というのはキツいので、親らしくなるとは思う。さくら達が十代になるので、今まですみれ達が引き受けていた視聴者層はさくら達が引き継げばいい訳だ。これで朝ドラの通常営業ぽくなるのかも知れない。話が相変わらずご都合主義なのも通常モードの朝ドラなのだろう。

2017年1月10日火曜日

ズレズレ『べっぴんさん』

このドラマは本来やるべきことからずれていることが多い。今日の回(81)もそうだ。麻田がもう靴を作れる体ではないと、さくらの靴を作って欲しいというすみれの依頼を断るのだが、二人がかりで考え直して欲しいと懇願する。麻田最後の作品をさくらに、そしてドラマの最初の方ですみれが麻田の作業を覗いていたことや、ものづくりとは何かということを教えてくれたのが麻田だということを視聴者に思い出させることで、第一部の終わり(?)に持っていこう、というのが脚本の狙いだろう。だが、こうすると麻田が文字通り老体に鞭打って靴を作らされているようにしか見えない。

本当は麻田自身に最後の靴はさくらのために作る、作りたい、と言わせるべきだった。麻田は子供も弟子もいない設定らしい。ならば、さくらの顔を見て、かつてすみれが自分の作業を熱心に覗いていたことを思い出し、それが今につながっているのではと思わせる。そして自分に何が残せるか考えたとき、最後の力を振り絞って、さくらのために本物の靴を作る決心をする、で良かったのではないか?そうすれば最後の靴作りは引退の儀式的なものとなる。予め最後だということが分かっているからこそ、すみれやさくらばかりか君枝や良子とその子供たちが見守る、という演出も成立するのだと思う。

麻田の言う「本物」と玉井の偽物を対比するのは良かったが、前に玉井が出てきてから時間が経ち過ぎているので、今まで何やってたんかーい、とツッコミたくなるし、最後のオチもグダグダしていて全然スッキリしない。

こういう芯を食ってないというか、ズレた話は他にもいくらでもある。例えば、ゆりは妊娠したことを潔に言い出せずにいた。これも言う言わないの話ではなく、ゆりが子供ができたことで家庭に入りたい気持ちが湧いてきたことに戸惑い、何をどのように選択したかを中心に描くべきだった。

紀夫がキアリスに加わったときもそうだ。紀夫は会社になったのだから今までのような名前の呼び方は止めようと提案した。こんなものはサラッと流して、本当は紀夫自身に食器5千個の注文を決断させることで、彼がすみれを全面的に信頼し、仕事上のパートナーとしてもやっていけることを示すべきだった。結局呼び方を戻すことや食器の注文を追認することで紀夫がすみれ達のやり方を認めた形にしているが、脚本家が紀夫のキャラで食器5千個発注にまで持って行く力がなかったように思える。紀夫もまたポンコツキャラである。問題を起こすのには便利な設定だが、キャラを作った脚本家自身が持て余しているように感じられることが多い。

朝ドラ『べっぴんさん』の作られ方 (2)

終戦直後、麻田はすみれが金に困っていることを知り、店の一部を貸してくれた。そのきっかけになった写真入れは、ベテランの職人である麻田の心を動かす程の出来には見えなかった。単なる同情だったのだろうか?普通、麻田は子供か弟子を戦争でなくし、その代わりとしてすみれに肩入れにすることになった、とか動機付けを補強しそうなものだが、そんなことは一切やらなかった。色々と考えてしまったが無駄なことだった。好意や幸運はすみれめがけて勝手にやってくるのだ。

紀夫が復員して来るまでの間、すみれの番犬のような役をしたのは栄輔。すみれに惚れたという設定だった。栄輔なら他の女にいきそうなものだが、まあ、好きになるのに理由はいらないので、これでもいいのだろう。だが、あくまで番犬扱いであるから、男として全く見られていなかった。だから喜代もすみれも栄輔を家に泊めることに何ら躊躇はなかったのだ。紀夫が戻って来た時点でお役御免となり、栄輔は誰にも何も告げずに去ることになる。結局、すみれにとって都合のいい番犬でしかなかった。

キアリスの大急出店もまた勝手に転がりこんできた幸運。すみれ達はボーとしていてガツガツと金を稼ぐようなキャラでないことが、渡りに船みたいに見えるのを多少減殺しているのかもしれない。社長夫人がキアリスの商品を気に入ったおかげで社長の独断で大急への出店が決まったようだが、これも都合のいい話。さらに話が進むにつれ大急社長はポンコツにされていく。小山程度の社員しか持てず、ゆり如きに言い負かされるのだから、なかなかのダメ社長だ。このドラマは話が進むにつれ、誰かがポンコツにされていく。

このようにすみれにとって都合の良いことが次々に起きた。それは単にすみれだから、という以上の理由はない。これだけでも『少年ジャンプ』的主人公と共通しているのが分かるが、まだ他にもある。

2017年1月9日月曜日

朝ドラ『べっぴんさん』の作られ方 (1)

久しぶりに朝ドラを観てみようと思ったのは、主人公がよくあるグイグイ系でベタベタな演技で押し通してくるタイプではなく、他のものより見易そうだったから。なお、自分は『あまちゃん』は朝ドラとは別物として扱っているので、ここで「朝ドラ」という言葉が出てきたら、『あまちゃん』は含まれないと思って頂きたい。

『べっぴんさん』で最初に思ったのは、お嬢様という名のポンコツさん達が、まわりの助けを借りながらキアリスという会社を大きくしていく話なんだろうな、ということ。ただ朝ドラは基本ホームドラマであり、仕事の描写はかなり雑なものになるであろうことは分かっていた。だが、それ以前に余りにもご都合主義が激しく、すみれ達メインのキャラも煮え切らないというか、女学校時代と大して変わらないことに苛立った。話もハネることなく、何か問題が起きても誰かの助言で簡単に解決、というパターンの繰り返し。これでは内容に興味を持てるはずがない。どうせ都合よくキアリスは拡大していくのだ。今後どうなるか?といった展開を待つ楽しみもない。興味は次第になぜこんな稚拙なドラマをわざわざ作っているのか?という点に移っていった。

このドラマを観ていくうちに、すみれ達にあえてあまり個性を与えず、子供っぽい印象を与えるようにしているのではないかと思うようになった。『少年ジャンプ』などの主人公はできるだけ特徴を付けないようにしているらしい。その方が、まだ何物でもない、自我の固まっていない子供には自分を主人公に投影させ易いのだそうだ。しかし、無個性だけでは子供の興味は惹けない。そこで何かの天才だったり、神から選ばれし者的な特別な存在として描かれる。主人公は特に努力してなくも、都合よく助けられたり、持って生まれた才能で道を切り開いていく。『べっぴんさん』のすみれは、まさにこのタイプの主人公として設定されているのではないか。

すみれが9歳のとき、町にある「あさや」に行きたいと言い出すと、都合よく潔が同行してくれた。そして潔はなぜかすみれのことを、とてもよく理解していた。これがすみれにだけ都合の良いことになっていたことは、後に分かる。潔はすみれに気があった訳でもなく、ゆりや紀夫をよく理解していた訳でもなかった。なぜか子供のときはすみれだけ特別に理解していたのだった。