一旦まりぶ達の年齢を忘れて見てみると、警察の厄介になる、親や兄弟と取っ組み合いのケンカというのは、中学生や高校生によくありそうなエピソードであることに気付く。実際それをやっているのだと思う。本来なら10年以上前にやっておくべきことを。
弁護士なら手より先に口が動きそうなものだが、まりぶの兄がそうでもないことは、父親の麻生に会った途端手を捻ることで分かる。だから拘置所でまりぶと殴り合うのだが、この兄もまりぶと正面から向き合わなかったことをずっと引きずっていたと感じさせる。
父親の麻生はその役割から逃げ続け、母親も押さえつけたせいで、まりぶは反抗期を不発弾のように抱えたまま10年以上過ごし、ようやくそれを爆発させることが出来た。ゆとり世代をどうこう言う前に、その親たちは何をやっていたんだ?という問いも含まれている。妻と子供もいるので、本来ならまりぶは山路や正和よりも先に、本当の意味で大人になる必要があったのだが、少年という名の箱に閉じ込められ続けてしまった。11浪はその期間を象徴する数字でもあったのだろう。このアンバランスな状態を引き受けなければならなかったことが、まりぶが持つ最大の悲劇性だろう。ようやく反抗期に至って、少年期の出口が見えてきた状態かもしれない。
まりぶが山路や正和に対してストレートに正論を言えたのは、まだ世の中を本当には理解していない少年の立場だったからだ。こういうのは別の言い方をすればきれいごとで、それで済まないことを理解するから、大人は新たに悩みや葛藤を抱える訳だ。まりぶはまだその前の段階にいたことになる。
路上で客引きをするまりぶの姿は、親に見捨てられたストリート・チルドレンのようでもある。まりぶが何度も口にする「おっぱいいかがですか」は、母親を求めているようにも見える。正和からサービス券を渡されたまりぶは鳥の民に通うようになる。一番の目的は正和に会うためだったろう。今回店に貼ってあるポスターがまりぶの母親であることが明かされた。母親の姿を見たかったのか、あるいは乗り越えようとしていたかは視聴者の想像に委ねられている。サービス券を使い切るため100回店に通うことになった。これは、お百度詣りを思い出させる。まりぶは何か願掛けをしていたのでは?と考えてみるのも面白いかもしれない。
正和と茜の結婚を祝う会が鳥の民で行われ、道上家の男3人も招待される。母親はポスターではあるが、かつての道上家が揃ったことになる。既に壊れてしまった家族なので再生とは呼べないが、それに近いものを感じさせる。
最終回は正和、山路、まりぶの中に残っている子供の部分との決別に焦点が当てられると思う。正和の妹であるゆとりが先行する形をとっている。ゆとりがぬいぐるみと寝ていたのは、大してかわいくないアイドルを可愛くみせるため、ではなく、普通に考えればゆとりの子供っぽさを表していた。茜はそのぬいぐるみを自分の部屋へ持って行き、ゆとりに自分が研修のときに正和を泣かせたことを教えてから返す。男はケツを叩いてやらないとダメだと伝えたのだろう。ゆとりは彼女なりの言葉にしてまりぶへ手紙を書き、「先に大人になった」と言われる。
茜が正和を泣かせた言葉は正和自身を通して山岸にも伝えられる。大人になるための呪文とでも呼ぶべきか。茜(「オズ」では南の魔女なので、北である仙台には行かないw)が間接的に彼女が山岸(ブリキの木こり)とまりぶ(かかし)を本来居るべき場所(大人になること)へ導いていることになる。鳥の民はバイトが上で店長が一番下、という階層構造が決められいるので、もう山岸は必要以上に自分を大きく見せる必要はない。このドラマは自分に必要な物理的な場所と大人という状態への移行、そこに生じる関係性の変遷を描いた、と言ってもいいのかもしれない。
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