2016年6月25日土曜日

ドラマ『ゆとりですがなにか』おまけですがなにか?

クドカン自身の過去作や他作品からの引用やパロディなどをまとめておく。クドカンの作品全部を観てないし、だいたい全部覚えている訳がないので、気付いたところだけ。

キャラ設定


出演者が他のドラマや映画での演じた役を重ねていると思われるものを列挙してみる。

  • 岡田将生演じる坂間正和は営業成績不振のため鳥の民に島流しになった。岡田は大河ドラマ『平清盛』では源頼朝役で伊豆へ島流しになっている。
  • 柳楽優弥と言えば映画『誰も知らない』を思い出す。母親に捨てられて子供達だけで暮らしていく話だった。両親が本来の役割を果たしておらず、孤独を感じていたであろう道上まりぶの設定の元になっているのかも知れない。
  • 松坂桃李演じる山路一豊は童貞先生だった。配役が決まった後、童貞設定になったらしい。松坂と噂のあった綾瀬はるかは映画『おっぱいバレー』でドーテー先生と呼ばれていた(高村光太郎の『道程』を紹介して生徒達に勘違いされた)。元々童貞やおっぱいというワードはクドカン作品によく出てくるが、さらにこのあたりを意識していたのではないかと思わせる。
  • 「ゆとりモンスター」山岸を演じた太賀は、ドラマ『おかしの家』でもモンスター的な役で出演し、このときは自分のベンツを傷つけた猫を訴えようとしていた。山岸はパワハラで正和を訴えようとしていた。
  • 安藤サクラ演じる宮下茜は正和の妹のゆとりにプロレスやるかと誘ったり、山路に自分を一発殴れと言ったりする格闘技好き男子みたいなキャラだった。安藤は映画『百円の恋』でボクサーに恋して捨てられた後、自らボクサーを目指す役だった。
  • 出演者とは関係ないが、正和、ゆとり、母親はカップ焼きそばが大好き、という設定だった。食べたくなると夜遅くても食べてしまうらしい。焼きそば大好き設定は『池袋ウエストゲートパーク』のマコトと同じ。

引用やパロディー


  • 茜のセリフ「マリッジ・ピンク」は過去作でも使われたいた。『マンハッタン・ラブ・ストーリー』か?
  • 野上(でんでん)の披露宴での超短スピーチ(「スカートとスピーチは短い方が...」)は、『あまちゃん』と同じで、でんでん演じる組合長がこれを言った直後に春子が会場に到着した。まりぶと正和登場のタイミングもこれを彷彿とさせる。
  • 最後の鳥の民のシーンで正和と茜がお金を払おうとすると、「勘定は済んでますよ」と言われる。まりぶが全員に奢って帰っていったが、これは『あまちゃん』の鈴鹿ひろ美を思い出させる。
  • 披露宴で茜が足が痺れて白無垢のまま蛇のように正和に這っていくのは、クドカンが出演した『魍魎の匣』のパロディー。この映画では両手足を切断され、包帯でぐるぐる巻きにされた少女が一人の男を助けるため、その姿で必死に這って行った。

おまけのおまけ


このドラマでは出演者に似た物を探して遊んでいるように思える。

  • はっきり似てるものとして、島崎遥香が顔文字で表現されている。
  • 山路と茜がお土産でカピバラまんじゅうを買ってきた。安藤サクラとカピバラが似てるような?
  • 野上(でんでん)が食中毒事件を起こし、謝罪会見した時に正和はドクロが入ったネクタイをしていた。これはゆとり世代がそんな場合でも構わずそういうネクタイをしていく、という話だけではなく、でんでんとドクロが似てると言いたかったのかも。
  • まりぶが正和を無理やり披露宴へ連れて行く時、ベティーの絵が入った布を顔に被せていた。顔全体を覆う必要はなく、猿ぐつわのように口だけ塞げば十分な筈。岡田将生がベティーと似てると言いたかったのでは?


2016年6月23日木曜日

ドラマ『ゆとりですがなにか』最終回 (3)

まりぶ(11浪+1牢w)はかつて山路と正和に「入れる大学に入って...すげえな」と嫌味ではなく言った。今回の「11年かかって結局入れる大学に入った」は、その言葉を自ら取り消している。これは結局妥協なのだが、少し大人になった、ということでもある。これまで毎回まりぶの口から出てきた「おっぱい」が出なくなったのも象徴的。

山路は人はいくつになっても間違い続けるのだと気づいたことで少し大人になった。完璧ではないが、いい先生というのは人を惹きつけるらしく、佐倉も結局教師になることに決めるし、「ファッションめがね」小暮までもが山路に憧れて教師を目指すらしい。そういえば小暮は途中から山路の舎弟みたいになっていた。

正和は新商品「ゆとりの民」を早川に売り込みに行く。この場面からは、いくつもの意味が読み取れる。早川は「これだからゆとりは」と馬鹿にしていた一人である。それに対してゆとりなりのやり方があるというカウンター。それを酒として呑め、ということでもあるので、ちゃんと受け入れろ、ということでもある。正和は早川が不倫したという証拠を握っている。その弱味に付け込んで商品を売り込みにいく、というは、いわゆる「大人の汚いやり方」だ。早川は弱みを握られているからではなく、そういうやり方も出来るようになった正和を、取引してもいい相手だと評価したのだと思う。野上が食中毒という大失態をやらかし、それに付け込んで貸しを作ることで早川は野上を取り込んだ。正和は早川と同じことをやって見せたのだ。

男3人とゆとり、茜も少し成長を見せたところでドラマは終わる。しかし、人は道の上で迷ったり、山道を登って頂きを目指したり、上り坂の時も下り坂の時もある。メインキャラの名前で無理やり締めてみたw 蛇足ってやつだ。「失礼しましったー」

2016年6月21日火曜日

ドラマ『ゆとりですがなにか』最終回 (2)

山路の性教育と結婚式の様子が並行して描かれていた。体は栄養さえあれば自動的に成長していくが、心の方は一生成長過程(途中で止まってしまう場合もあるのかもw)なので、その時々で悩み、迷う。正和と茜は結婚という局面で悩み、自分たちで乗り越えようとした。結婚後のことは宗貴夫婦の妊活や酒屋は向いてないから農業やりたい、という形で示されていた。さらに世代が上がって麻生の年に至ってもそうなのだと提示されている。麻生の場合、ファッションに対するポリシーだけは曲げるつもりなさそうだが。

正和は早川を殴ることで手を痛め、茜は山路に自分を殴らせた(タイミングは間違ったw)。二人ともそれが意味がなかったことを悟る。その代りに正和は友達じゃないと言い張る友達のまりぶの妻をラッキーパンチ的に見つける。まりぶが正和を披露宴へ強制連行したのは、その返礼の意味もあっただろう。茜は一人で結婚式に臨むこことで代わりの痛みを引き受けた。

正和が早川を殴ったとき妻と娘が少し映るのだが、二人とも髪型が前髪ぱっつんショートだった。このドラマは、ほとんど気づかないようなところまでちゃんと演出されていた。単純なミスもあったけどw 居酒屋やカフェなど客がいるシーンが多く、しかも正和達が大声で騒ぎ出すので、モブキャラのリアクションが欠かせないのだが、中にはすごく上手い人もいて驚いた。

成長は時にいびつな形を取ることもある。まりぶは妻子を抱えながらも、心は少年のまま路上を彷徨っているように見えた。決してモテない訳ではない山路が童貞のままなのは、子供達のことが頭にちらついて、いざとなると出来ないことが原因だと明かされた。男としてはどうなの?という感じだが、良い教師であることの裏返しとも受け取れる。たぶん佐倉はそのことが理解できたのだと思う。

完璧な人間などいない、人はいくつになっても間違えるものだ、という主張はこれまでのクドカン作品の中でも繰り返されてきた。今回は小学生に語る形で、より直接的に山路の口から分かりやすく伝えられている。

2016年6月20日月曜日

ドラマ『ゆとりですがなにか』最終回 (1)

『あまちゃん』では中年3組の合同結婚式という変化球だった。これは結婚式というよりも、長引かせてしまった青春の卒業式の意味合いの方が強かったように思うが、今度は結婚式、披露宴という形式的、儀式的なものを徹底的に解体してしまったように思える。

劇中でも「やくざの襲名式みたい」というセリフが出てくるが、見かけはまさにそれ(笑)。司会の山路は洋装で浮きまくっている。麻生の衣装もチャラついて浮いてる感じだが、魔法使いでも何でもなかったオズをイメージした衣装として見ると、結構納得してしまう。オズは気球に乗っていて、たまたまエメラルド・シティーに着いた、いわば迷子であった。麻生もまた道に迷っていた人として直接的に表現されている。

結婚式、披露宴は神道とキリスト教の混ぜ合わせたようにも見えるし、どちらもどうでもいいじゃないか、と言ってるようにも見える。結婚する二人の意志さえ確認できれば他に何が必要なのか?と問われているようだ。挨拶やスピーチ、指輪の交換、といった形式的なものはひたすらスキップされる。三三九度の盃だけ別々の場所で同時刻に行われるが、二人の意志表明として使われているのではないか。

『ごめんね青春!』では贖罪、異なるもの(男と女、仏教とキリスト教とか)どうしの相互理解と融和を描いていた。これらの要素が今回の結婚式にギュッと詰められているようだ。茜が正和不在の結婚式にひたすら耐えるのは贖罪のためだった。

茜が足が痺れたと言って白無垢姿で這うように正和ににじり寄って行った。正和の方から近づかないのはいかにも不自然だが、これは『魍魎の匣』という映画のパロディーだから(パロディーや引用は別にまとめる予定)。演出家達が同業の若い世代に向けて、「このタイミングでパロディー放り込む度胸あるか?」と挑発しているのかもしれない。

正和が酒瓶を倒す場面が何度も登場する。「覆水盆に返らず」という言葉を思い出すが、「こぼした酒は拭けばいい」と解釈した。間違った過去は取り消せないが、現在の状態は改善できる、ということだ。

2016年6月13日月曜日

ドラマ「ゆとりですがなにか」第9回 メモ

一旦まりぶ達の年齢を忘れて見てみると、警察の厄介になる、親や兄弟と取っ組み合いのケンカというのは、中学生や高校生によくありそうなエピソードであることに気付く。実際それをやっているのだと思う。本来なら10年以上前にやっておくべきことを。

弁護士なら手より先に口が動きそうなものだが、まりぶの兄がそうでもないことは、父親の麻生に会った途端手を捻ることで分かる。だから拘置所でまりぶと殴り合うのだが、この兄もまりぶと正面から向き合わなかったことをずっと引きずっていたと感じさせる。

父親の麻生はその役割から逃げ続け、母親も押さえつけたせいで、まりぶは反抗期を不発弾のように抱えたまま10年以上過ごし、ようやくそれを爆発させることが出来た。ゆとり世代をどうこう言う前に、その親たちは何をやっていたんだ?という問いも含まれている。妻と子供もいるので、本来ならまりぶは山路や正和よりも先に、本当の意味で大人になる必要があったのだが、少年という名の箱に閉じ込められ続けてしまった。11浪はその期間を象徴する数字でもあったのだろう。このアンバランスな状態を引き受けなければならなかったことが、まりぶが持つ最大の悲劇性だろう。ようやく反抗期に至って、少年期の出口が見えてきた状態かもしれない。

まりぶが山路や正和に対してストレートに正論を言えたのは、まだ世の中を本当には理解していない少年の立場だったからだ。こういうのは別の言い方をすればきれいごとで、それで済まないことを理解するから、大人は新たに悩みや葛藤を抱える訳だ。まりぶはまだその前の段階にいたことになる。

路上で客引きをするまりぶの姿は、親に見捨てられたストリート・チルドレンのようでもある。まりぶが何度も口にする「おっぱいいかがですか」は、母親を求めているようにも見える。正和からサービス券を渡されたまりぶは鳥の民に通うようになる。一番の目的は正和に会うためだったろう。今回店に貼ってあるポスターがまりぶの母親であることが明かされた。母親の姿を見たかったのか、あるいは乗り越えようとしていたかは視聴者の想像に委ねられている。サービス券を使い切るため100回店に通うことになった。これは、お百度詣りを思い出させる。まりぶは何か願掛けをしていたのでは?と考えてみるのも面白いかもしれない。

正和と茜の結婚を祝う会が鳥の民で行われ、道上家の男3人も招待される。母親はポスターではあるが、かつての道上家が揃ったことになる。既に壊れてしまった家族なので再生とは呼べないが、それに近いものを感じさせる。

最終回は正和、山路、まりぶの中に残っている子供の部分との決別に焦点が当てられると思う。正和の妹であるゆとりが先行する形をとっている。ゆとりがぬいぐるみと寝ていたのは、大してかわいくないアイドルを可愛くみせるため、ではなく、普通に考えればゆとりの子供っぽさを表していた。茜はそのぬいぐるみを自分の部屋へ持って行き、ゆとりに自分が研修のときに正和を泣かせたことを教えてから返す。男はケツを叩いてやらないとダメだと伝えたのだろう。ゆとりは彼女なりの言葉にしてまりぶへ手紙を書き、「先に大人になった」と言われる。

茜が正和を泣かせた言葉は正和自身を通して山岸にも伝えられる。大人になるための呪文とでも呼ぶべきか。茜(「オズ」では南の魔女なので、北である仙台には行かないw)が間接的に彼女が山岸(ブリキの木こり)とまりぶ(かかし)を本来居るべき場所(大人になること)へ導いていることになる。鳥の民はバイトが上で店長が一番下、という階層構造が決められいるので、もう山岸は必要以上に自分を大きく見せる必要はない。このドラマは自分に必要な物理的な場所と大人という状態への移行、そこに生じる関係性の変遷を描いた、と言ってもいいのかもしれない。

2016年6月11日土曜日

ドラマ「ゆとりですがなにか」 第7、第8回 メモ

山路と大吾は対(つい)関係になっているようだ。大吾の学習障害は本人がどうすることも出来ないという違いがあるが、山路が童貞であることが職員室では日常会話になっていることから、まわりの人は苦笑しながらも受け入れていることが分かる。女性に関しては正反対とも言える麻生までも、まあそういうのもあるか、と認め始めているようだ。茜が大吾が自分の弱点をまわりに認めさせたことを対して「勇気がある」と賛辞をおくるが、これは間接的に山路に向けられたものとみていいのではないか。

このドラマが土台にしている「オズの魔法使い」では、山路は勇気のないライオンにあたる。女性との関係に深く踏み込めないという意味で、勇気がない、を表していたと思うが、童貞であるという弱点を(山路の意志ではなかったが)まわりに知らしめる勇気へと転換させたのだと思う。

「オズ」ではライオンは勇気を示して百獣の王として動物たちに迎えられる。ドラマでは小学生を動物、モンペを野獣のように見立てているのだろう(笑)。

大吾は山路と対関係で、間接的に山路の状態を表すとともに、ゆとり教育への言及の糸口としても使われている。クドカンは設定やキャラを一つの目的のために使うことは、まず無い。これらを上手く使い切るので、取って付けたような印象がなくなる。

早川が若者からボールを奪ってバスケをするが、すごく下手、というシーンがあった。これは早川というキャラはこんな奴、という紹介でもある。バスケの一件はそのまま茜をホテルに連れ込むことにつながっている。こんな状況はそんなに珍しくないのに、何故芸能人が不倫するとギャーギャー騒ぐのか、そんな資格があるのか?という皮肉も多分含まれている。上手いのは、茜が早川と寝ることで、正和と同時に退職する際の障害を取り除くことにもなっている点。二人とも寿退社(笑)だが、時期が悪い。茜は栄転、正和は営業に復帰したばかり。部下が辞めるということは管理職としての資質を問われ、マイナスの評価につながる訳だが、早川には二人に対して後ろめたさがあるので受け入れるしかない。不倫の証拠が向こうから消えてくれるようなものなので、ウェルカムな感じもあるだろう。

山岸(「オズ」では心のないブリキの木こり)は仕事が出来ないことを虚勢を張って誤魔化そうとしていたのだが、田之口の母親と正和に取り除いてもらって楽になったのか、鳥の民ではネギを片手に幸せそうだ。鴨がネギを背負って、とよく言うように、もう自分を好きに料理してくれ、という感じなのか。

道上まりぶは東大に入れる程の頭脳はない、という意味で「オズ」のかかしにあたる。西の魔女によって藁を抜き取られ、服を高い木の上に引っ掛けられて身動きできなくなる。後でこの服に藁を詰め直してもらうと生き返る、というざっくりした設定w 妻子は入管を避けて逃亡、まりぶは逮捕されて身動きできなくる。かかしはオズが去った後のエメラルドシティ(建物や服などすべてが緑色)を任される。植木屋は木や緑を連想させるに十分だ。今気になっているのは道上という苗字。まりぶは文字通り道の上で客引きをやっていたのだが、それは呪縛のようなものなのか、ということ。

正和の足の怪我は心の傷を分かり易く表すためのものだと思っていたが、それだけではなかったようだ。茜の父親の足が悪いのは意図的に正和との共通性を作っているように思える。単純に前進が不器用なことを表しているだけかもしれないが、これまで正和の父親への思いが不自然なくらい表に出て来ないので、最後の方に取ってあると想定し、とりあえずこの線で考えてみる。足が不自由という共通性でA=B、B=CならA=Cのような感じで、茜の父が正和の父親と似ていることを匂わせているのではないかと。だから正和は余計に茜の父に対して反発を感じたのだと。まりぶと父親である麻生との対峙が今後あるが、その時に正和が自分の父親に対して感じていた思いも絡めて来そうな気がしている。

正和は「オズ」のドロシーで、竜巻ではなく成績不振で鳥の民へ飛ばされた。ドロシーは銀の靴を3回鳴らして3歩でカンザスに戻るが、正和が田之口の母親(北の魔女)から渡されたのは「忍耐」という字が入ったキーホルダー。正和は色々なことに耐え抜いて戻ることに成功する。3歩で戻る様子は、鳥の民店長→営業→茜→坂間酒造、という3段階で表されている。ドラマの冒頭は正和が営業から飛ばされたところから始まるので、一見戻るべき場所は営業に見えるが、これはスカしみたいなもので、本当に戻るべき場所は坂間酒造ということだ。実家から会社に行ってた訳だけどw 「オズ」自体が無いと思っていたものは実は自分の中にある、戻る手段は最初から持っている、要は自分の足元を見ろ、という話だ。

「オズ」では南の魔女(象徴する色は赤)がドロシーにカンザスへの戻り方を教え、ライオン、かかし、ブリキのきこりを居るべき場所へ送る。服や持ち物が赤の女性がドラマでは南の魔女の役割、という演出のようだ。茜は名前自体が赤だが、自転車やバッグが赤だった。正和を本来の場所へ導く役割であり、山路の相談相手でもある。正和の妹のゆとりもまりぶと会ってる時は赤い服を着てたり、赤のバッグを持っていた。まりぶとは既に別れたが、彼の逮捕後もまだ関わるのかもしれない。佐倉も何度か赤いセーターを着ていた。彼女も山路が本来居るべき場所へ導く役割を担うと思われる。

クドカンはストーリーを作るのが苦手なのか興味がないのか分からないが、いつも人と人の関係性の変化を主軸にしてドラマを作っているように思える。もっとも、人と人の思いがぶつかり合う場がドラマ、と言える訳で、当然関係性も移り変わっていく。ただ、クドカンが書いた相転移とでも呼べそうな関係性の変化は、見ていて純粋に楽しい。