クラシック音楽だけでなく、日本の昔話やルイス・キャロルの童話などの要素を散りばめた、大人のおとぎ話とでも呼べそうな『カルテット』は最終回を迎えた。このドラマ自体がクラシックのようなものになって欲しいという願いも込められていたのかもしれない。本物だけが時間の流れに耐え、永く残ることができる。
■ 変わりゆくものと変わらぬ思い
人生、必ずしも望んでいた通りにはならない。「ノクターン」は割烹ダイニング「のくた庵」になった。マスターは優しさからか、本音なのか分からないが前から和食をやりたかったと言ってくれた。ただ、「のくた庵」の方が儲かっていそうではある。家森は理容師としてはアシスタント止まりで、今カットできるのは長過ぎる春雨(?)くらいになってしまった。すずめと家森が仕事にどっぷり浸かって音楽から気持ちが離れていく中、元々会社に居場所があったとは言えない別府は退職し、一人だけ同じ場所に留まり続けている。家森は誰かを巻き込んで寸劇を繰り広げるが、別府は一人芝居をするように真紀が残していったレコーダーに思いを記録しているところが何ともいじましい。
有朱は相変わらずという感じだ。普通なら、結婚します!という感じで左手の婚約指輪を見せるのだろうが、右手の高価な指輪の方を谷村夫婦に見せびらかす。結婚よりも金持ちになることを見せつけるところに危うさがある。
真紀は自からは軽井沢に戻ることができない。すずめ達が迎え入れてくれることは分かっていても、もはや自分の音楽を真正面から受け止めてくれる人はいないと考えている。真紀はすずめに自分のヴァイオリンを託していった。かつて半田が家森のヴィオラを奪い、それを返したときに元妻・茶馬子はあんたはそのままでいい、音楽を続ければいい、言ってくれた。今度はすずめ達が真紀にヴァイオリンを返す番になる。
真紀が幹生と逃げようとした時、すずめは母親についていこうとする子供のようだった。今度は逆にすずめが母親的で、久し振りに再会した真紀がやつれ、苦労して来たことを、何の会話もせずに気付く。多くのものが移り変わってゆく中で、すずめ達の真紀への思い、真紀の3人への思いは変わらなかった。
■ 4人と音楽
このドラマでは男だから、女だからという理由による役割分担がない。とてもフラットな関係性だ。最初から男二人が料理を作っていたし、4人で洗濯物を干しながらふざけ合ったりしていた。車の運転は真紀がいないときは別府、という感じだったが、運転には意味を持たせているように思う。
真紀はいつも大事な局面でカルテットの方向性を決めてきた。ベンジャミン瀧田を追い出した時や愛死天ROOでの弾きぶり、そして今回のコンサート開催。何としても4人で音楽ができる場を作りたい、という強い意志が読み取れる。真紀が運転することが多いのは、3人を伴って目的地へ導く役割であることを象徴しているように思う。カルテットにはオーケストラのような指揮者はいないし、バンドのようにリズムを刻んでくれるドラムもない。信頼できる核となるような人を中心に音楽を奏でるスタイルなのだと思う。
真紀が自分のことだけ考えるのなら、すずめ達3人よりも、もっと上手い人と組んだ方がいい。真紀だけが元プロ奏者なので、そう出来る確率は高いのだが、真紀はそうしなかった。初めからこの4人で何とか音楽活動ができるように努めていた。真紀だけが唯一プロの厳しさを知っている立場だから、ということだけではないだろう。さんざん苦しんだ過去を捨て、結婚したら今度は夫が失踪。やっと辿り着いた場所である。ここしかない、これを失ってはいけないという切実な思いがあったのだろう。
4人が最初に出会った頃の回想が描かれた。そのとき全員一致したのが「自分の気持を音にして飛ばす感覚」と、それが誰かに届いたと感じられるときの喜び。一度これを知ってしまうと、なかなか音楽をやめられなくなるのだろう。実際真紀の住む団地で演奏した時、彼らの音楽は真紀に届いたし、ショッピングモールでの演奏を楽しそう聴いていた中学生もコンサートに来てくれたのである。
ドーナツホール宛の匿名の手紙は「技術も才能も無く、煙突から出た煙のような存在なのに、なぜ音楽を続けるのか?」といったような文面だった。例えそうでも、彼らなりの音楽をやって、伝わる人に伝わればいいと4人は考えている。だから、演奏中に空き缶を投げつけられようと、途中で客が帰ってしまおうと、彼らはめげない。それが手紙への答えでもある。
コンサート会場に来ていたGのキャップを被る女性は手紙の送り主だと思わせる。5年前に止めた筈の楽器のケースを持っていたので、彼女もまた同類で、手紙に書いた問いへの答えを切実に求めていたのかもしれない。
ドーナツホールの4人は疑似家族みたいなものだ。別府と家森がファーストネームで呼び合うのもその表れ(ちょっと気持ち悪いけどねw)。さらに4人は音楽で結ばれた同志でもある。すずめ達が真紀のヴァイオリンを持って行ったとき、音楽を奏でて真紀を呼び寄せたが、ドーナツホールの再結成に言葉は必要なさそうだ。嘘から始まったカルテットはリセットされ、今度は嘘のない形で再スタートした。
■ 世間との対峙
『問題のあるレストラン』では、ちょっとしたことがきっかけでレストランは閉店に追い込まれてしまう。少しのミスも許さず、執拗に責任を追求する世間に潰されてしまった格好だ。『カルテット』でも手紙の送り主や週刊誌の根拠ない記事を通して世間が顔を出す。真紀とすずめは自分たちの過去を逆手にとってコンサートの客を集めることにする。『問題のあるレストラン』では主人公たちは為す術なくやられてしまったが、今度はちゃんと反攻する格好だ。
自分たちの過去を利用してコンサートを開くということは、色物のような存在になるということだ。かつて押し付けられた「愛死天ROO」を、今度は自ら望んでやるようなものだ。「志のある三流は四流」だと言われたが、3.5流くらいにはなれたのかも知れない。4人は世間から外れたような存在だが、孤立をよしとしている訳ではない。不器用な彼らは、音楽を通してしか自分たちを表現できず、それが自分を偽らずに世界と繋がことができる唯一の方法なのだと思う。
有朱がコンサートにやって来たのは、金持ちになったことを見せつける以上の意味があったと思う。有朱は自分とは全く違った価値観を持つ真紀に執拗に絡んでいたが、真紀たちが何を選択したかを彼女に見せることに意味があったのだと思う。有朱もまた世間の一部だ。
■ 乙女の死
真紀が義父を殺したかどうかは、いくら目を凝らして繰り返し観たところで、白黒つけられるような決定的証拠が出て来る訳ではない。結局真紀という人をどう見ているかにかかっているのだろうが、自分には真紀が義父を殺したとは思えない。
コンサートの1曲目は真紀が選んだシューベルトの『死と乙女』は、病気で死期が近づいた乙女は死を恐れるが、死は安息であるという救いを与える歌だと捉えられている。タイトルしか見ない人には真紀が義父を殺したと想像させるかもしれない。しかし、歌詞を見ると、死は直接乙女自身に向かっている。真紀が自殺まで考えたのかは分からないが、山本アキコという乙女を死なせることでしか安息を得られなかったのだろう。それは無垢であることの終わりでもある。
「乙女」から「早乙女」を連想する人もいるだろうが、脚本家のトラップのような気もする。タイトルしか見ないで判断する人は、「コロッケデート」の文字と写真だけで判断してしまうような人と何も変わらないよ、と言いたいのかも。
■ 花火とパセリ
ラストで4人は熱海の花火大会で演奏することになる。この季節に花火?と思ったが、まあよしとしよう。花火を打ち上げているのに誰が演奏聞くの?という話はどこかで観た気がすると思ったら、NHKで放送中の『火花』第1話だった。こちらは花火打ち上げてる間に誰が漫才聞くんかーい、という話だった。このドラマ、1シーン、1カットが長く、ダラーとした印象があるので、こちらもダラーとした感じで何となく見ていたのだが、『カルテット』との関連ではとりあえず見ておいて良かった。このドラマには茶馬子役で登場した高橋メアリージュンも出演している。今回、なぜ大橋絵茉という、茶馬子と関係ありそうな紛らわしい名前の人物が登場したのか疑問だった。もちろん、彼女は真紀とは対極的で、3人にはやっぱり真紀が必要、と思わせるためだが、大橋という名字でなくても良かったのではないか、と。狙いとしては茶馬子を思い出してもらい(半田と墨田の再登場も同じ目的だろう)、『火花』と関連付けて欲しかったのだと思う。
話を戻そう。ドーナツホールも芸人達も、花火大会ではパセリのような添え物扱いだ。花火のように華麗に輝く人もいれば、添え物で終わってしまう人もいる。それでもこのドラマは「サンキューパセリ」なのだ。そして花火だって後に残るのは「煙」だけなのである。
売りに出された別荘は、買い手がつかずに宙ぶらりんの状態。そして4人もまた宙ぶらりん状態だ。彼らは時に道に迷いながらも、「みぞみぞ」できる喜びを噛み締めながら進んでゆくのだろう。彼らなりのやり方で。
■ 『あまちゃん』フォロワーとしての『カルテット』
『あまちゃん』の鈴鹿ひろ美がどんな思いで女優人生を送って来たか、震災後歌う気になった動機などが詳しく語られることはなかった。意図的に空白部分を作り、視聴者に想像してもらう作りになっている。正解が用意されている訳ではないので、あれこれ考えても永久ループのようになる。その意味で『あまちゃん』は未完であり、終わらないドラマになったのだと思う。
この鈴鹿ひろ美の描き方を取り入れたのが『カルテット』の真紀だ。家森や別府の過去も詳しく描かれたとは言えないが、それは重要ではないから。真紀の義父殺害の疑惑については、明確な答えが用意されている訳ではない。こうすることで、『あまちゃん』同様、放送終了後も視聴者があれこれ想像することで、余韻を楽しめるようになっている。
最初に戻るような円環構造や隠れた笑い、鏡像関係なども『あまちゃん』で使われた手法を取り入れたのだろう。だいたいドーナツホールの立ち位置が、天野アキが選んだ「プロでもない、素人でもないアマちゃん(アマチュア)」と極めて近い。映画『Wの悲劇』の影響を明示するため、『あまちゃん』では薬師丸ひろ子が出演した。同様に『カルテット』では宮藤官九郎を出演させることで『あまちゃん』の影響を明示した。もちろん全てが『あまちゃん』では無く、他の作品の影響も感じられる。例えば松尾スズキ監督の『クワイエットルームにようこそ』でクドカンが演じた鉄雄というキャラは巻幹生によく似ている。また、『Wの悲劇』の原作(映画では原作が劇中劇として使われるという面白い構造になっている)は雪に囲まれた別荘が舞台だ。
『あまちゃん』はこうすればドラマは面白くなる、という方法をいくつも提示していた。『カルテット』はそれに応える形で作られたものでもあると思う。もっとこういうドラマが増えてくれれば嬉しいのだが。