2017年2月22日水曜日

『カルテット』 第6話



今回はクドカン主演のドラマになっていた。番組が終わった後、別ドラマの予告で阿部サダヲが出てきて、どんだけ大人計画に染まってるんだよ、となるし、『マツコの知らない世界』に続いて『カルテット』を観ると、松たか子を松マツコと言いそうになったり、火曜日はカオスになる(笑)。

■ 真紀と幹生

二人の出会いから幹生が失踪するまで、交互の視点から描かれた。これまでもエンド・タイトルに本編が食い込んでいたが、今回はとうとう完全に4人が歌う映像が無くなった。そこまでしても、二人のことを出来るだけ細かく描写したかったのだろう。

幹生は結婚しても恋人気分でいたいと願い、真紀は家族ができた幸せを噛みしめるため、ヴァイオリンを捨てる。そんな二人が少しづつずれていく様子が描かれた。幹生の気持ちは真紀と出会って凧のように舞い上がったが、風が止めば凧は落ちる。好きな詩集や映画を真紀とは共有できない。特別な人に見えた真紀は、ヴァイオリンを止めてどんどん普通の主婦になっていく。真紀にとってそれは幸せのカタチだったが、幹生にとってはそうではなかった。会社での立場からも分かるように、幹生もまた不器用な人だ。

そんな幹生が唐揚げにレモンをかけるのがイヤだったことを真紀は知ってしまう。そうした小さなことでさえ自分に言ってくれてなかったのだとショックを受ける。マキマキになってもいいと思って結婚したのに。二人はお互いにすれ違っていることを認識して話し合おうとするが、結局二人とも逃げてしまう。

ささやかな嘘が人を大きく傷つけることがある。真紀がベンジャミン瀧田の嘘に嫌悪感を見せたのも、幹生のことがあったからだろう。

■ 捕獲

家森は逃げ出した「青いふぐりのサル」をバイトで探しに行くが、ケージだけ持ってウロウロしている。絶対ノープランだ(笑)。家森と幹生は病院でバナナを食べていたので、順当に行けば「逃げ出したサル」とは幹生のことでもあり、家森が捕まえることになるのだろうが、果たして...

家森がサルを捕まえに行く様子はメーテルリンクの『青い鳥』をちょっと思い出させる。この中に出てくるのはチルチルとミチル。マキマキとミキオに何とな~く似ている。あくまで、何とな~く、ね(笑)。

サルを捕まえようとしている家森とは対照的に、別府は会社の倉庫に閉じ込められる。誰かに捕獲されてしまったかのようにも見える。すずめも拘束されて動けなくなっている。てっきり幹生が警察に通報されないようにそうしたのかと思ったが、次回のあらすじを見ると含みがあるようだ。最後の部分は時間的に飛ばされていて、次回全貌が明らかになる、ということだろう。

有朱が別荘に入れたのは、家森を騙して鍵を奪ったのだろうか?真紀のヴァイオリンを盗むが、大事そうに抱きかかえたりしたところを見ると、売り飛ばして金にしようということではないらしい。有朱は幹生と揉み合いになり2階から転落。別府、すずめ、有朱の3人が同時に身動きできなくなったのは、何か意味があるのだろうか?

■ 幹生とすずめ

今回も触れられたが、幹生は平熱が高い。冷たい物が好きだったり、演奏のときに靴下を脱いで裸足になってしまうすずめも平熱が高いのではないか?二人の関係性が気になるところだ。すずめがサロペットの胸ポケットからスマホや体温計を取り出すのは、ドラえもんみたいで面白かったが、幹生がすずめの前で懺悔しているような姿は、『ごめんね青春!』を思い出してちょっと面白かった。

■ 富澤たけしと八木亜希子

谷村夫婦の場面は、だいたいコントや漫才の延長みたいになっている。もちろんサンドウィッチマン・富澤に合わせて脚本を書いているからだが、おかげで八木亜希子が巻き込まれた形になってしまっている。もっと出来る人なので勿体ない気がする。ただ、富澤も厨房で料理作ったり、誰かに「早くしろ!」とか怒鳴っている様子が想像できて、雰囲気はそんなに悪くないと思う。

■ クドカンと『あまちゃん』

今回は全般的にシリアスだったが、それでも遊び心は忘れない。クドカンが『あまちゃん』のロケで使われた秋葉原や谷中に現れたり、真紀と幹生の最初の出会いがタクシーだったりする。春子がたまたま正宗が運転するタクシーを止めたのが最初の出会いだった。もし「太巻」というあだ名だけ聞かされてどういう人か想像すると、真紀を一緒にタクシーに乗せた幹生の同僚みたいな人じゃないかな?同じような眼鏡もかけてたし、タクシーが「寿司詰め」状態にもなった(笑)。

別府が倉庫に閉じ込められたときの既視感は、『あまちゃん』で震災が発生したとき、ユイがトンネルの中で北鉄に閉じ込めれたのを思い出したからだろう。このときユイはケータイのバッテリーが切れそうだと言っていた。とても良くないことが起きてしまった雰囲気が漂う。

今回クドカンが主演状態だったのは、これだけでも快挙のような気がするが、作り手の最大級のリスペクトの表れだろう。次回も出番は多そうだし、どこまで『あまちゃん』のオマージュが入ってくるかも楽しみだ。

2017年2月18日土曜日

『カルテット』 第5話

■ 粗過ぎるあらすじ


音楽プロデューサー朝木(浅野和之)がおだてているのは分かっていながらも、ドーナツ・ホールはクラシック音楽のライブに参加することを決める。しかし意に沿わぬことをやらされ、結局一度だけでやめてしまう。すずめは真紀を探るのをやめることにするが、代わりに来杉有朱がその役を引き受けたことを知る。

■ 人の表と裏


人は必要に迫られ、表や裏の顔を使い分けるようになっていくものだ。それは自分を守るためのものであり、他人と何とかやっていくための手段であもる。今回は登場人物たちの表と裏の顔が次々と提示されていく。

巻鏡子は真紀の顔を見ると豹変し、気のいい義母を装って真紀と接する。二人はいつもこんな感じだったのだろうが、真紀を疑っている気持ちは完全には隠しきれず、別府が一緒にいることが分かると、寝室をチェックしたりする。鏡子が背中を向けて真紀のマッサージを受ける姿は象徴的だ。真紀に対しては正面を見せず、ずっと背中を向けてきたのだろう。

別府の弟である圭(森岡龍)は表の顔は出てこなかったが、別府が自分以外の家族はみんなすごいと言っていたので、音楽業界でそれなりの人なだろう。どうやら別荘を処分したいらしいが、体裁を考え、家森たちに仕事を世話して出ていってもらおうというハラらしい。実際朝木を使って仕事を用意している。別荘処分の話は今後の伏線になるのだろう。

朝木は「我々三流は楽しめばいい」と真紀達ドーナッツ・ホールの面々に言う。要は「お前らも所詮3流。つけあがるな」ということだ。最初に褒め殺しのようなことを言ったときの仮面を取っているかに見えるが、ライブが終わって真紀達が去った後、「志のある3流は4流」と言い、ここで始めて本当の顔を覗かせる。

有朱もまた真紀の前で本性を見せる。土足で真紀の心の中にズカズカと踏み込んで来た彼女が言いたいことは、要は夫婦でも表の顔と裏の顔を使い分ければいいじゃないか、ということになるだろう。有朱も地下アイドルから地上に上がれなかった人で、真紀たちと同じような立場であり、真紀と同じようにネガティブな思考だ。違うのは真紀が自分を否定的にとらえるのに対して、有朱は他人を否定的にとらえることだ。

有朱は裏表を上手く使い分けられないような大人がまだ夢を追っていること自体に苛立っているようにも見える。有朱もまだ大人になりきれてないから直球で勝負しているが、これは第1話で真紀を追求したすずめと似ている。すずめは偽りの微笑を浮かべ、自分を守るために嘘もついて来ただろう(だからとっさに「猫があぐらをかいてた」とか少しひねった嘘も言える)。地下アイドルだった有朱も同じようなことをしてきたとすると、二人には共通した部分があるということだ。真紀を責めているかのような有朱だったが、彼女もまた裏表を上手く使い分けられなかったから、学級崩壊させたりしたのではないか。自分と似ていると余計に腹が立つというのは、よくあることだ。

コスプレもまた別人格を装うという意味で、仮面と同じ機能を持つ。「愛死天ROO」のコスプレをし、エア演奏もやるが、結局一度だけで止めてしまう。ここからもドーナツ・ホールは、表と裏の顔、建前と本音を上手く使い分けられない人達の集まりだということが分かる。そんな彼らの着地点を描くのが、このドラマのゴールなのだろう。

■ すずめと真紀


「ノクターン」でドーナツ・ホールの面々が同時に言葉を発してしまうのは、それだけ息がピッタリ合ってきたということだろう。すずめは最初から真紀を裏切り続けているようなものだが、裏表の顔を使い分けられないメンバーの中にあっては、裏の顔を持ち続けてきたすずめはカルテット全体をも裏切っているようなものだ。疑惑から始まったすずめの真紀に対する気持ちは、完全に信頼へと変わった。しかし、そんな真紀をすずめは失うことになる。

有朱が執拗に真紀を追求した時、すずめは何とか遮ろうと言葉をぶつけてくる。だが「ノクターン」の時とは違って、有朱とは息が合わないのでタイミングはズレる。それでも懸命に邪魔をするが、結局核心である真紀の夫の失踪まで、有朱を辿り着かせてしまう。そして有朱が落としたレコーダーに録音された内容と、義母・鏡子が使っていたバッグの花がすずめに付着していたことから、真紀はすずめが義母から頼まれて自分を探っていたことに気付く。この時の松たか子の演技は、これだけでもこの回を観た甲斐があったと十分思わせるものだった。「ありガトーショコラ」から甘くほろ苦いショコラが消え、他人行儀な「ありがとう」に変わる。すずめにとっては「さようなら」と同じだ。

真紀がベンジャミン瀧田を追い出したのは、彼が嘘をつく苦痛や家族のもとへ戻る可能性を作るためかとも思ったのだが、真紀にとっての第一の理由は彼女の言葉通り、瀧田が嘘をついていること自体にあったようだ。真紀には嘘に対する拒絶反応みたいなものがあったらしく、それは他人に対してだけでなく、自分が嘘をつくことにも心理的抵抗があるようだ。第1話では今回の有朱と同じように、すずめが真紀を追求する場面があった。すずめは嘘をつくことに慣れていて、ロールケーキを持ち出したりして気を逸らそうとしたのに対し、すずめに追求された時の真紀は「A(アー)下さい」を繰り返すだけだった。これは真紀の不器用さというよりも、嘘をつきたくない為に同じことを言い続けるくらいしかできなかった、ということではないか。真紀がすずめが父親に会わないという選択を受け入れたのは、嘘偽りのない本当の気持ちだったからだろう。

前回真紀は家森の言葉をノドグロとか反対の意味に変える、という微妙な嘘をついていたが、今回のライブでのエア演奏は、完全な嘘である。それを真っ先に受け入れたのは真紀だった。真紀は自分を否定的にとらえているので、三流であることを認めるのは、そんなに難しいこととは思えない。それよりも嘘をつくことに同意する方が彼女にとっては困難だった筈だ。今回真紀はそれをやってみせた。そして嘘をつくのに慣れている筈のすずめが今度は拒否の姿勢を示す。もう嘘をつきたくないという気持ち傾いてきている。二人の気持ちが変化してきていることは、頭に入れておいた方が良さそうだ。

■ メタメタする


脚本の坂元裕二には、あまりメタ的なものを入れてくるイメージがなかったのだが、『カルテット』に関しては、かなりやっているように見える。第3話のときにも触れたが、『愛のむきだし』を意識してそうだった。今回はメタの王様的な宮藤官九郎が真紀の「夫さん」役として出てきたので、彼の作品に関係した『カルテット』の出演者をまとめてみよう。

『あまちゃん』組は松田龍平、八木亜希子、森岡龍。『ゆとりですがなにか』組は安藤サクラと吉岡里帆。他に松たか子は舞台『メタルマクベス』(『マクベス』の脚色)、満島ひかりは『ごめんね青春!』、高橋一生は『池袋ウエストゲートパーク』と『吾輩は主婦である』に出演している。

第2話では別府の眼鏡が割れたことよりも、九条結衣と別れさせることに、より強いメッセージを感じた。『あまちゃん』で松田龍平は足立結衣(ユイ)のマネージャー役だった。同じ名前の結衣と別れさせることで、『あまちゃん』でついたイメージをこのドラマで払拭してやる、という脚本家の意気込みを感じた。別府は九条結衣の部屋に泊まっても何も起こらなかったと言っていたので、九条結衣は天野アキも内包していると考えることもできる。

メタの部分を意識すると、満島ひかりが教会にいるだけで『ごめんね青春!』を思い出して面白いし、『ゆとりですがなにか』で教育実習生役をやっていた吉岡里帆が演じる有朱が学級崩壊させたくだりも、別の意味で面白くなる。どこまで意識してやっているかは分からないが、こういうのもドラマ、というかフィクションの楽しみ方のひとつであると思う。

■ ドラマの表と裏


前のブログで家森諭高というキャラの原型はハンプティー・ダンプティーではないかと書いた。これはルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』にも登場する。鏡の国でアリスは赤の王の夢の中の登場人物に過ぎないと言われる。『カルテット』ではクドカン作品に出演した俳優が数多く出演し、さらにクドカン本人も出てきた。脚本家が描いた世界を「夢」とするなら、夢を見ている人とその夢の中の人物が同じ世界にいるという点で鏡の国と同じだ。そして『あまちゃん』もまた、鏡の国のようでもある。北三陸編と震災までの東京編は対称的に作られていて、鏡の中の世界のようでもある。春子が夢見たアイドルの世界に、東京で娘のアキが入ったことを考えると、もっと鏡の国と近いものになる。

クドカンがよく使うメタ的なアプローチや、童話など他のものを下敷きにした作劇、笑いの裏にメッセージを仕込む、といったようなことを、このドラマはこれまでやって来た。そして今回、ドーナツ・ホールが意に沿わないライブをやることは、『あまちゃん』で他に選択肢がなく、太巻の言われるまま影武者をやってしまった天野春子のようでもある。ライブ本番で結局自分たちの演奏ができない姿は鈴鹿ひろ美だ。まるでドラマの裏側で着々とクドカンが登場する舞台を整えていたかのようだ。表側からは、クドカンはいかにも母や妻から逃げてしまいそうな男に見えて最適だが、裏側からもクドカンの配役は『カルテット』というドラマでは必然的、と言えるほどに強い結びつきがあるように思える。

2017年2月12日日曜日

『カルテット』 登場人物名の意味



脚本家や作品によって登場人物の名前の付け方は違う。坂元裕二の場合は名前に意味を持たせることが結構あるような気がする(例えば『わたしたちの教科書』や『問題のあるレストラン』に出てきた「雨木」)。脚本家にヒントを出すつもりがなくても、作品やキャラに絡めたネーミングであれば、見る側からすれば作品のヒントになる。『カルテット』ではキャラの名前に意味がある場合が多そうなので、自分なりの推測を書いてみようと思う。


・家森諭高
前にも書いたように、森には3つの木があるので「家森」には「3人の家」という意味を込めたのだと思う。「諭高」は文字通り、「高いところから諭す」でキャラを表している。第1話から家森はあれこれ御託を並べているが、第4話では自分の部屋に3人が来たとき布団の上に座らせ、自分だけ机の前の椅子にすわって高い位置から離婚の経緯を話していた。茶馬子が別荘に来た時は階段横の壁に座り、わざわざ高い位置から話している。そんな上から目線で物事を語る家森だが、肝心なところで致命的なことを茶馬子に言ってしまい、結局家族を失うことになった。高い所から落ちて壊れた『マザー・グース』のハンプティー・ダンプティーが発想の元になっているような気がする。駅の階段から落ちて入院するくらいの怪我もしてるしね(笑)。

・世吹すずめ
「渡来」は"What's a lie?"、「世吹」は"safe key"(金庫の鍵)なだろう。「世吹」は「せぶき」なのだが、いいんじゃないかな(笑)。納骨ボックスの鍵をすずめは「金庫の鍵」と誤魔化していたので、それに由来するのだと思う。「すずめ」は前にも書いたように、日本の昔話やイタリア語の"cello"が「小さい」にも由来するのかもしれない。

・別府司
別府と言えば温泉で、地獄巡りの湯を思い出す。「地獄を司る」のはエンマ大王。第8話で別府と真紀をくっつけるためにすずめは嘘をつくし、結果的に別府へ告白できなくなるのを「舌を抜かれた」とみなしてもいいのかな、と思う。

・巻鏡子
結果的に真紀とすずめを結びつけるきっかけになったのは鏡子の疑惑からだった。真紀とすずめは鏡像関係。二人とも父親に傷つけられ、名前を変えている。

・来杉有朱
有朱はルイス・キャロルの童話に出てくるアリスからとったものだろう。「地下アイドル」は「不思議の国」を、「淀君」は「鏡の国」(白のポーンからクイーンになる)を連想させる。実際このドラマには『アリス』が元になっているような要素が散りばめられている。前述のハンプティー・ダンプティーは『鏡の国のアリス』にも出てくる。

「来杉」は『夢の途中』(『あまちゃん』に出演した薬師丸ひろ子版は『セーラー服と機関銃』というタイトル)を作詞した来生えつこから来ているのではないか。吉岡里帆は『ゆとりですがなにか』での役名は佐倉悦子だった。『夢の途中』というタイトルは、有朱というよりも、ドーナツホールのメンバーの状態にふさわしいではないか。

・巻(早乙女)真紀
すずめ、別府、家森を「巻き込んでいる」が、第7話では「巻き戻って」早乙女になったと言われる。プロデューサーのインタビューによると、このドラマの発端は『やっぱり猫が好き』みたいなことがやりたいね、ということだったらしい。猫の落書きを描いたり、猫のエプロンをしていたので、真紀は猫好きということだ。ドラマの中で真紀は猫、幹生はネズミに例えられている(直接的ではないが)。猫とネズミが一緒に暮らすのは無理だということであもる。幹生は有朱を殺したと勘違いして「一緒に沈んでくる」と言って真紀をおいていくが、彼女は必死に追跡する。この追う、追われるの図式も猫とネズミだ。

・巻幹生
「ミキオ」という名前は「ミッキーマウス」が由来でネズミを表しているのだと思う。幹生が失踪する直前、テレビの画面にはカピバラ(大型のネズミ)が映っていた。元カノも猫好き(ギロチンという名前の、破壊力がありそうな猫を飼っていた)だったので、そんなところは真紀と共通している。

クドカンとミッキーと言えば、『あまちゃん』に出てきた「子供は喜ぶが、大人は胃が痛くなる」ネズミの絵を思い出してしまう...







2017年2月9日木曜日

『カルテット』 第4話



第4話をざっくりまとめると、家森には別れた妻・大橋茶馬子(高橋メアリージュン)と息子がいて、一時はヨリを戻すことを考えるが、結局音楽を取ることになる。一方別府は、あれだけ強く拒絶されて諦めたと思っていたら、真紀に再度迫っていくという、なかなかの恋愛ゾンビぶり見せる(ちなみに松田龍平はゾンビの真似が得意らしいw)。ゴミ出しの時の怒り方といい、別府の不穏さが首をもたげて来たようだった。家森も真紀を脅して金を巻き上げるつもりだったことを告白し、暗黒面をのぞかせた。

家森の話は類型的な気がした。その分普通のドラマに近づき、この方が見易いと感じた人もいるだろう。その代わりのサービス、なのかどうか分からないが、表面的な笑いだけでなく、隠れた笑いも多かったように思う。

■ 捨てられないもの、変えられないもの


半田(Mummy-D)にヴィオラを奪われた家森は息子のもとへ向かう。音楽を奪われてはじめて、ずっと尾を引いていた元妻と子供に向き合う気になったわけだ。これは第2話の別府の時と同じパターン。目の前に2枚の紙が重なってあるが、手前の方しか見えない。別府の場合は一枚目の紙である真紀が取り除かれてやっと2枚目の紙である結衣が見えた。家森の場合は1枚目が音楽で、2枚目が元妻と子供。同時に複数のことを考えられない、男性の一般的な傾向が反映されている。

冒頭で誰もゴミを捨てないと別府は怒っていたが、捨てられなかったのはゴミだけではない。家森は結婚していた時は音楽を捨てられず、離婚後は元妻と子供のことを引きずっていた。家森はアジフライにソースをかけることを止められない。自分のスタイルというものが変えられない人で、茶馬子はそのことを理解していた。儀式のように息子と合奏した後、家森は元妻と息子と別れることになる。心の中にポッカリ穴が空いた状態だろう。ベンジャミン瀧田が言ったように、欠落をかかえて家森は音楽を続けることになる。「家森」という名前には木が3つあり、「3人の家」というのを表していたのだと思う。

真紀は夫への思い、別府は真紀への思いを捨てられない。真紀は家森をフォローするため、彼が言った茶馬子への悪口を、反対語のようなものにしてに伝えてみせた。ピラニアはノドグロに、デスノートはドラゴンボールといった具合に。しかし、茶馬子の気持ちを変えることはできなかった。

真紀は今度、別府から「愛しいは虚しい」など、相反する気持ちが同居していると伝えられる。それは剥かれた甘栗のように、別府の気持ちをありのまま表現したものだろう。真紀が言った反対言葉は嘘だったが、ときには反対の言葉も真実になる。

真紀の義母である巻鏡子もまた息子を信じる気持ちは変わらないし、真紀への疑念を捨てられない。雪の中に眼鏡を落としたまま強制連行されるように軽トラで去って行ったが、真紀はその眼鏡に気付いたのだろうか?もたいまさこは映画「めがね」でかき氷を作っていた人でもあったw。

ゴミはいずれ捨てねばならないが、思いを捨てるのは難しい。第1話で真紀はベンジャミン瀧田を追い出した。人を騙しながら音楽を続ける苦痛から開放し、その代わり瀧田を追いやった痛みを抱えながら音楽を続ける道を選んだようにも見える。別府は結衣を、すずめは父を失い、自分の気持に区切りをつけるしかなかった。今回茶馬子は家森が致命的なことを言い、もはや元に戻ることはないという事実を突きつけた。思いがすぐに消えてなくなることはないだろうが、どこかで区切りをつけることが生きていくためには必要なのだろう。

■ アポロン


半田がいつも持っているアポロチョコ。いかにも何か意味ありげだが、半田はギリシャ神話に出てくる神、アポロンのような存在になっている。

アポロンは医術の神であり、疫病神でもある。半田は風邪を治そうとチョコと風邪薬を混ぜて服用するが、これが彼なりの治し方なのだろう。風邪は人にうつすと治ると言うが、結局家森にうつすことで治っているように見えるw。

アポロンは節度のある神とされるが乱暴でもあるという、ちょっと矛盾した存在。半田はゴミを捨ててくれたりする一方で家森をす巻にして階段から落とそうともする。

アポロンは音楽の神でもある。半田役にライムスターのMummy-Dが選ばれた理由の一つだろう。半田は家森からヴィオラを奪うが、わざわざ軽井沢まで来て丁重に返却してくれる。音楽の神から音楽をやっていいよ、というお墨付きをもらったかのようだが、当の神様は冬の軽井沢で『二人の夏物語』をヘビロテしているのだから、なんとも心許ないw。

■ 赤茶馬子


このドラマでは焦点を当てたい人物に赤いものを着させ、視覚的に目立つようにしている。今回は茶馬子がずっと赤いセーター。すずめは第1話から赤いセーターを着ていたが、今回はなし。男に捨てられ、子供を連れて行かれた茶馬子は、別府がゴミを捨てないと怒っていた同じ場所にやって来て怒りをぶちまける。茶馬子の赤は「怒り」を表しているようにも感じられた。

前回の蕎麦屋のシーンでは、すずめが赤いセーター、真紀は緑の服で蕎麦屋の壁も緑だった。映像的にすずめが際立つような配慮だが、赤がすずめの「痛み」を表し、補色の緑色で中和させようとしているようにも感じた。第1話ではベンジャミン瀧田に緑のマフラーをさせ、赤い帽子がより映えるよう配慮されていた。

「茶馬子」という名前は下手なキラキラネームを黙らしてしまいそうだが、どうやらちゃんと意味があるらしい。岩手県の滝沢市と盛岡市で毎年行われている「チャグチャグ馬コ」という祭りがある。昔この地方では農耕に使っていた馬を家族のように大切にしていて、年に一度馬を休ませるため、神社にお参りしたのが始まりらしい。そのとき馬を飾るのだが、大小の鈴もつけられ、歩くと「チャグチャグ」という音に聞こえるのが名前の由来だそうだ。茶馬子が独特のピンポン(呼び鈴)の鳴らし方をするのは、これに因んだものだろう。東北の祭りが由来だと分かると、茶馬子が一貫して関西弁をしゃべり続けるのがより一層楽しくなる。

家森はあまり働いてなさそうだったので、茶馬子が生活のために働いていたという含みもあるのかもしれない。家森は6千万の宝くじだけでなく、家族として大切にすべきだった相手をも失ってしまった。

茶馬子もすずめもトイレのスリッパを履いたままだった。二人には共通するものがあるということか。家森はもう第1話あたりですずめの寝顔に見入ったりしてた。

■ フレール・ジャック


日本では『グーチョキパーでなにつくろう』として歌われることが多いフランスの民謡。元の歌詞には今回とリンクしそうなものがある。「お眠りですか?」は車の中で眠るすずめを思い起こすし、「朝のお勤めの鐘を鳴らしてください!」はゴミ出しという朝のお勤めををサボっている3人に向けた言葉であるようにも思える。

■ 流れの変わり目


1クールの連ドラではだいたい4話目くらいでパターンを変えてくることが多い。前回までは真紀が誰かの痛みを和らげるような役割だったが、今回は3人がかりで家森を癒そうとしていて、これまでと違う印象だ。別府と家森、有朱も不穏な空気を出し始め、何かが起きそう気配だ。最後は露骨に次に続くよ感を出して来た。第5話で第1幕終了ということなので、次回とセットになっていると考えた方がいいのだろう。

2017年2月1日水曜日

『カルテット』 第3話


すずめの過去が明かされた。子供のときに父親の超能力詐欺に巻き込まれていたのだ。それ以来、すずめ自身がまわりから白い眼で見られ、いつも自分の居場所がなかった。来杉有朱(吉岡里帆)の恋愛教習所(笑)で特別講習を受けたすずめは、別府への接近を試みるが、父親の命が長くないことを知らされる。

■ ボーダー ~交わらない線と線


ボーダー柄の服は何を意味していたのだろうか?2つの意味を持たせていると思う。そのひとつが「交わらない線と線」。これはすずめと父親を表している。

すずめは自分を詐欺事件に巻き込んだ父親を許すことが出来なかったし、憎んでもいただろう。すずめは家森の一枚しかないパンツ(男の下着をランジェリーって言うなw)を暖炉で燃やしてしまう。第1話からフリがあった家森のパンツがここに着地するとは思わなかった。このパンツはボーダー柄でもあった。男物でひとつしかないもの。これはすずめの父親の暗喩で、すずめがそれを燃やしたということは、父親に消えて欲しいという願望があるか、すでに心の中では無いものにしている、ということだろう。

「てんきよほう」は上唇と下唇をくっつけずに発声できる。有朱は巻鏡子とすずめに「こんにちは」の後すぐに「さようなら」で立ち去る。これらは「非接触」のイメージで、「交わらない線と線」に対するヒントなのだろう。

「ボーダーを着ていると特別な関係に見える」というセリフの後、すずめを探しに来た岩瀬純(前田旺志郎)はボーダーを着ていた。この時ボーダーを着ていた真紀は、後ですずめの父親の入院する病院へ行くことになる。ボーダーが父親と結びつくことのヒントのようにもなっている。

『問題のあるレストラン』では主人公の田中たま子が自分と門司の関係を例えて「2つの直線は1点で交わった後はもう交わることはない」と言っていた。脚本の坂元裕二は線を使った例えが好きなのかも知れない。                  

■ 境界を越える真紀とすずめ


ボーダーのもう一つの意味は「境界」。病院近くの道路をはさんで、真紀とすずめは並行して走るが、その様子はまさに2つの平行線を描いているよう。真紀はすずめを呼び止め、道路を横断してすずめの腕を掴む。二人の間にある境界を乗り越え、接触した瞬間だ。2つの線が意志の力で交わったと言ってもいい。蕎麦屋で真紀はすずめに亡くなった父親のところへ行かなくてもよいと言う。線と線を無理に交える必要はない、許さないことを許すのだと。それはすずめにとって何よりもの救いの言葉だったろう。

父親の呪縛から開放されたすずめは、別荘に戻ったとき別府にキスをする。これはペットボトル一本分の境界を飛び越えることであり、有朱が言った「女からキスしたら男に恋は生まれません」を無視することでもある。そのときすずめは「WiFiつながりました」と言う。別府とつながっただけでなく、孤立し続けたすずめが、この世界とつながった瞬間でもあるように感じられる。

■ 孤立とズレ


千葉は軽井沢よりもずっと南なので、真紀とすずめの格好は場違いな感じを与える。ケーキと日本茶の組み合わせも普通の感覚からはずれている。さらに蕎麦屋のラジオからは稲川淳二の怪談が聞こえてくる。真冬の怪談も一般的な感覚からはずれている。真紀は一度はラジオを消すが付け直す。すずめが父親の最期に会わないという、世間一般の感覚から外れたものでも、真紀は許容するというサインだった。

真紀とすずめが軽井沢の別荘に戻ったとき、家森と別府はイルミネーションを飾り付けている最中だった。クリスマスの時期ではないので、これもずれていると言えるが、すずめを喜ばそうとした訳だから、「優しいズレ感」とでも呼んだ方がいいかもしれない。このドラマはそうしたズレをも包み込む。

すずめはバッハの『無伴奏チェロ組曲』を弾きだしてすぐに止め、チェロにキスするような仕草をした後、別の曲を演奏し始めた。ここにもあるべきものから外れてしまっても良い、好きな曲を弾けばよい、というメッセージとともに、自分はチェロとともに生きるのだという決意も感じられる。それにしても満島ひかりがチェロを演奏している姿は圧巻だった。

すずめは父親と縁を切っても、テレビを使って大きな詐欺事件を起こしたせいで、どこへ行っても過去がバラされ、いつも居場所を失っていた。真紀は夫が失踪し、義母からは疑われ、孤立した状態にあるようだ。別府も家族はみんなすごいんで、と言っていたので、自分だけそうではないという孤立感を持っているようだ。家森のことは次回で分かるだろうが、やはり孤立した存在なのだろう。真紀とすずめが別荘に戻ったとき、「ただいま」と言う。男二人は「おかえりなさい」。別荘はそんな4人が家族のように暮らせる唯一の場所なのだ。

有朱も妹の口振りでは、家族を始めとする周囲とソリが合わず、孤立している感じだ。4人と関わることで何かが動き出すのだろう。ノクターンは今のところ「問題のないレストラン」(笑)のようだが、有朱が何かしら波乱を持ち込む可能性があるように思う。

■ すずめという名前


『スズメとキツツキ』という昔話がある。ドラマの中にも虫や米が出て来るので、今回の話はこの昔話を踏まえたもので、「すずめ」という名前の由来もここから来ているのかもしれないが、他の理由もありそうな気がしている。

スズメという鳥は人が近づくと必ず逃げる。人に近づかないイメージは職場で笑顔を絶やさないが、決して人に近づかないすずめのイメージと合致しているように思える。また、イタリア語で"cello"は「小さい」という意味があり、これもスズメにつながるように思える。

■ すずめの秘密はこれで全部?


すずめの名字が世吹ではなく、綿来だった。世吹はすずめが勝手に名乗っているのか、それとも親戚の養子にでもなって実際に名字が変わっているのか?人の眼から逃れるため、そうしたとも十分考えられる。

第1話からすずめが冷たい物(牛乳やアイス)が好きなこと、汗かきであること、演奏前に靴下を脱ぐこと(これらの原因はひとつだが)が繰り返し提示されてきた。これは単に視聴者の興味を引きつけるためのダシだったのか?それともちゃんと意味があるのか?すずめの秘密が今回で全部分かったと思わない方がいいかもしれない。

■ 『愛のむきだし』


声だけの出演だった安藤サクラは満島ひかりと園子温監督の『愛のむきだし』で共演している(吉岡里帆とは『ゆとりですがなにか』で共演)。『愛のむきだし』では満島ひかり演じるヨウコを自分が所属するカルト教団に引き入れる役だった。今回は逆に職場から追い出す側だったことがちょっと面白い。

また、同映画は主人公がクリスチャンの母親に「マリアのような女性をみつけなさい」と言われ、ヨウコが主人公にとって唯一無二の女性であり、彼のマリアを手に入れようともがく話でもあった。第2話で別府が真紀に魅せらたとき、真紀が弾いていた曲は『アヴェ・マリア』(「こんにちは、マリア」という意味らしい)だった。今回真紀はすずめに救いを与えている。真紀は3人とってマリア的な存在になるのかも知れない。

『愛のむきだし』の主題歌はゆらゆら帝国の『空洞です』。これは「ドーナツの穴」につながるイメージ。このように『カルテット』には随所に『愛のむきだし』へのオマージュが感じられる。